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磨くべき美意識とは

2011年08月11日 | 読書
 日曜朝の某番組にかの藤原正彦教授が出演していた。
 一緒にあの都知事も出ていて、もう方向性はわかっているような内容だが、藤原教授のあの独特の声が聞きたくて、ちょっと見ることにした。

 途中、例によってあの都知事がこんなことを言う。

 「ぶん殴られなくちゃいかん、この国は!」

 だからどうしてそういう言い回しになるのだろうか。だったら貴方が…と言いたくなるが、まあそれはさておき。

 藤原教授は、ずっと以前から繰り返し語ってきたであろう「日本人の美的感覚を取り戻したい」という点を強調されていた。
 そこで、先週読んだ文庫本のことを思い起こしてみる。

 『日本人の矜持~九人との対話』(藤原正彦 新潮文庫)

 この九人の顔ぶれが凄い。
 齋藤孝、中西輝政、曽野綾子というラインナップは対談相手としてかなり自然に受けとめられるが、佐藤優、五木寛之、ビートたけしなどはやや意表をつく相手だ。
 なかでも山田太一は、結構な人選ではないか。

 しかし共通点はないように見えても、そうでもないかということに気づく。藤原がいうところの「情緒力」に近い感覚を、山田太一は描くことがあるではないか。
 そんなふうに読んでいくと、山田の語ったこの一言はずいぶんと興味深い。

 「経済的には落ちているけれども格好いい」というところまで美意識を磨いていかないといまのグローバリズムに対抗するパワーにはならないように思います。

 物質的な裕福さと精神的な満足が必ずしも一致しないことは、ずいぶんと昔から語られてきた。
 これを美意識という言葉で括って評する考え方も、けして新しいとは言えない。
 しかし、今改めてその点を強調することで「パワー」にするという気構えが必要なのかもしれない。

 人は強く雄大なものに憧れを感ずる。きれいで新しく、光り輝くものを追い求めようとする。
 反面、日本人の多くは、弱くささやかなものに深遠さを見いだしたり、古びた様子から何かの意味を読みとろうとしたりする傾向もある。
 磨くべきは後者であり、仮にそれが閉鎖的と批判されようが、どこかで踏ん張って手放さないようにしないといけない。
 美意識は価値観の基盤となりえるはずだ。

 ぶん殴れば立ち上がるというのは、一見「矜持」に思えたりするが、そうした鈍感な考えとは、ちょっと距離を置きたい。