すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

“「問い」を発する子ども”を問う③

2011年08月04日 | 読書
 “「問い」を発する子ども”を育てるには、“「問い」を発する教師”の存在が必要である。

 口幅ったい言い方だが、開会で挨拶させてもらった。講師のお一方の資料にも同様の言葉が記されていた。

 時間を長めにとったにも関わらず、わずか三名の質疑・感想しか出なかったことは主催者として大いに反省しているし、今後運営上の工夫を加えていきたいと考えている。

 しかし正直それ以上に、私も含めた出席者全体の「問いを発する」力の欠如を感じるのである。

 講師のお二方のご提言は、実に明快であり、かつ工夫されたものだった。

 佐藤正寿先生のお話は、授業づくりのエッセンスが詰め込まれた内容であり、どのポイントも具体的かつ連鎖していた。
 問いの「持たせ方」そして「伝え方」、どちらの面も過不足なく提示なさった。子どもに対する綿密な指導支援が、おそらく優先順位をつけて絞り込んだ形でまとめられ、まだまだ掘り起こせそうに思えた。

 石橋先生のユニークな実演とお話には惹きつけられた。
 キーワードは「身体」であり、「雰囲気」であり、「個」である。
 どちらかと言えば「持たせ方」に力点が注がれていたが、それは子どもの表しやすい方法で「伝える」のが基本という考えに裏打ちされていて、どこまでも本物志向という強い信念が感じられるものだった。

 それに対して、教師からの「問い」があまり出なかったのは、秋田県人にありがちな引っ込み思案のせい、目立つことを嫌う、恥ずかしがり屋…ということもむろんあろう。
 しかし、「問いを発する」というテーマを掲げながら、これはやや自虐的な風景ではないかと思う。

 もし仮に、多くの出席者が「問い」が「持てなかった」のであれば、それは前提となる知識・理解不足であり、想像力不足であることを素直に認め、対策を考えねばならない。「伝えられなかった」のであれば、その方法を知らない(それはないだろう)か経験不足、右倣え意識過剰であろう。

 ただ、その責任を出席者側に強く問うこともまた避けねばならない。
 研究組織として、今までそういう姿勢を作ってきたか、当日の雰囲気づくりをしたか、環境づくりをしたか…それを真摯に振り返ることになる。
 そしてこれはまさしく、テーマ“「問い」を発する子ども”の育成に必要な点として県教委が記したことと合致するのである。

 「問い」はまず最初にどこに向けるべきか、心したい。