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“「問い」を発する子ども”を問う①

2011年08月02日 | 雑記帳
 “「問い」を発する子ども”は、本県秋田の「学校教育の指針・本年度の重点」というリーフレットの表紙に大きく掲げられたフレーズである。

 四月当初少し唐突な形に思えたその文言について、他の関係資料に説明らしき文章はなかった。その後、いくつかの会で確認はあったが突っ込んだ話はなかったように思う。
 ようやくというべきか、先週になって県教委は“「問い」を発する子ども”の育成に向けてと題して4ページの資料を提示した。
 http://www.pref.akita.lg.jp/www/contents/1311214400732/files/h24toi.pdf

 正直、少し総花的な印象は否めないが、具体例があることがいいわけではないし、各自がそこから「問い」を持つことこそ肝要だろう。


 さて、実は昨日、本町の教育振興協議会の夏季研修会が開かれ、「“問いを発する子ども”を育てる授業づくり」をテーマに、全体研修を行った。
 秋田大学の客員教授である石橋研一先生、岩手から広瀬小副校長の佐藤正寿先生、このお二人を招いてお話をうかがうことが出来た。
 非常に充実した時間であったが、その感想を記す前に、自分なりに、このテーマについて考えていることなどを書き散らしてみたい。

 まとまった考えを述べるには力不足だが、断片的にでも、いわばこの大きなテーマに向かう姿勢づくりのような気持ちで記してみたい。

 まず、根本的に、このフレーズの価値は何かと問う。

 “「問い」を発する子ども”のどの部分かと言えば、それは「問い」である。

 では「問い」の価値とはなんだろうか。

 教育や授業づくりとはかけ離れるかもしれないが(いや少なくとも教育と切り離すことはできない)、なぜ「問い」に価値があるのかははっきりさせたい。

 先日読んだ『最後の授業』で著者が我が子に向けて書いた一節のなかに、こんな文章があった。

 ディランは分析的でもある。父親と同じだ。答えより質問が大切ということも、すでに理解している。

 「答えより質問が大切」…正解を出すことより問いかけるほうがより重要だということ…これは一つの人生観であり、生きる指針と呼ぶべきことである。
 つまり、もっと言えば「答は常に流動的なものであり、唯一の解を求める姿勢は危うい」「一つの答は、何かを問うための材料にすぎない」などに置き換えてもよい考えだ。

 例としては妥当かどうかわからないし一概に言えないことを承知で挙げれば、同じように大震災に遭った人々のなかでいち早く復興のために自ら動き出した人たちがいる。
 この方々は「問い」が強い人ではないだろうか、と仮定してみる。

 誰かが授ける正解を待つのではなく、自ら今何をなすべきか、なぜここにいるのか、どう改善すべきか…を問いかけたからこそ、足を踏み出したように思う。
 そうすれば、「問い」とは他者へ向ける行為であるとともに、内に向けて働きかけられ、自らを揺さぶり動かす行為でもある。

 多様な価値観が混在し、それでいて閉塞的な社会状況がある。
 過疎化、少子高齢化の典型にある本県にとって、「問い」の持つ価値の重さは、強調し過ぎるということはない。

 問題は、どのようにして強調していくか、具体的に何を変えていくかということにある。