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計画からの束縛に気をつけろ

2011年08月17日 | 読書
 再び『授業からの解放~フレネ教育運動の試み』から。

 書名となっている最終章の「3 授業からの解放」は読みごたえがあった。
 北海道教組の教研集会での講演がもとになっている文章である。

 冒頭のところの、この問いかけに考えさせられた。

 今、日本の学校の授業で、この「導入」をたいせつにしようという風潮がどのくらい残っているのでしょうか。

 ここで語られた「今」とは、1993年である。
 著者は自分が教師になった頃、つまりそれから三十年ほど前と比較して言っているのである。
 その落差はさておき、私は、その時点の「今」と現在を比べたときに、導入の重要度は全体としてかなり下がっている印象を持っている。

 本の内容とはレベルの違いがあるにせよ、導入の姿そのものが変質しているように感じているのだ。

 その原因の一つとして、「めあてを授業の最初に提示する・黒板に書いたり、掲示したりする、あるいは確認する」ことが、教委からの訪問時などに指導の原則としてよく取り上げられたり、学校毎の研究成果として掲げられたりすることを挙げたい。これは私の周囲だけなのだろうか。

 その方法自体の有効性は確かにある。授業の効率化や連続性を考えたときの取り上げやすい方法だろう。
 しかし、それは一方法にしか過ぎない。数あるパターンの中の一つでしかない。
 そういう位置づけにあるものを、原則的とはいっても「いい授業の条件」のように言うことは、大きな問題を孕むと思う。

 授業の導入はもっと自由でありたい。教師がモノを持ち込んでもいいし、前時の児童の感想からでもいい。全体で身体を動かすことから始めてもいい。
 その授業のねらいを知ったり気づいたりするのは、半分を過ぎた頃でも、終末であってもあり得るし、必ずしも性急に言語化しなくてもいい場合もあるはずだ。

 導入では何よりも学習意欲を高めなくてはいけない。個人ごとのレディネスに違いがあったら、それを教師自身が踏まえていくための時間的余裕もほしい。
 発達段階はもちろん集団や教科という多様な条件を括って、一律化できるようなものではない。

 著者が、こどもと教師の出会いの場である「授業」を規制している枠として、真っ先に挙げた言葉は「計画」であった。導入指導が変質してきたことも、共通しているのかもしれない。

 計画というものは、緻密にすればするほどサイドステップが踏み難い、融通のきかないものになりやすいものです。

 公教育に携わる私たちが「計画からの自由」を真っ向から言いだすことはあり得ない。

 しかし、「計画からの束縛」には常に留意したい。
 それは習慣だから。それは価値観だから。