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“「問い」を発する子ども”を問う②

2011年08月03日 | 雑記帳
 「問いが大事だ」と百万回叫ぶだけでは、何も変わりはしない。

 では、どんなふうに迫っていくか。

 “「問い」を発する子ども”の残り二つの視点を見ていく。

 「発する」と「子ども」である。


 「発する」前に必要なことがある。
 問いを「持つ」「浮かべる」段階である。

 「問いを持つ」…この心的作用は、ごく一般的に幼児期に盛んであり、それに伴って「発する」行為も頻繁になる。
 「どうして?」「なぜ?」の繰り返しに閉口した記憶を持つ親も少なくないだろう。
 やはりこの時が最初のポイントなのだと思う。

 その問いにどれだけつきあってやるか、その問いをどんな形として返してやるか、その行方が「問いを持つことはどれだけいいことなのか、楽しいことなのか」のレベルを決定する。

 そして、問いの言語化が、そのレベルに大きな役割を果たすことに注目しなければならない。
 前述した『最後の授業』に、貴重な一節がある。

 たいていの子供は「どうして?どうして?」と訊く。我が家の決まりのひとつは、単語一つだけの質問をしないこと。ディランはきちんとした文章を質問するのが大好きで、探究心は年齢より進んでいる。

 問いを発したことの評価は、まずは問いを持ったことの評価から始まるし、その点を明確に言語化するというしつけ(おそらくは、問い返し、言い直し、言葉添え、賞賛など)を繰り返せば、確実に問いのレベルは上がる。

 これは幼児期の家庭教育のみならず、学校における教室場面でも、まったく変わらないのではないか。

 「発する」には、少し範囲の広い動詞という印象がある。
 意識的かどうかという点においても状況によって異なる場合があるだろう。
 そんなことを考えてみると、”「問い」を発する“は”「問い」を持つ“と”「問い」を伝える“の中間項、というよりどちらも含ませた表現なのかなという気がする。
 
 そして具体的な指導としては、「持つ」と「伝える」に区分した方がより鮮明になるという考えが浮かぶ。
 
 つまり、どのようにして問いを持たせるか、どのような問いを持たせるか。
 どのようして問いを伝えるか、どのようにしたら問いは伝わるか。
 ここからの指導が具体を帯びてくる。


 さて「子ども」である。
 この表現について語ることは、何を今さらという気もするし、教育関係の膨大な文言の多くに当てはまる一般的なことになる。
 それを承知で、私なりに「~~~な子ども」とした表現に感じる二つの視点がある。

 一つは指導理念や指導法にも絡んでくることだが、いわば子どもは誰から学ぶかという点である。
 そしてもう一つは、「子ども」に対応する「大人」の存在や能力、姿勢である。

 後者に焦点を絞ってみれば、“「問い」を発する”は、ずいぶんとお寒い現実ではないか。