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やはり私たちは、私は…

2011年08月18日 | 読書
 『授業からの解放~フレネ教育運動の試み』と関わって、もう二つばかり書きとめておきたい。


 フレネ教育に限らず、伝統的な教育からの脱皮、革新を目指した動きが、この国全体に拡がらなかったのは何故だろうか。

 この件に関して教育学や教育史学等での検討、研究はあるだろうと思う。
 全くそういう知識なしに、自分の感覚的な思いを吐露すれば、これは教師自身の自由度の低さが大きく影響しているのではないか。
 そして、それが外圧的か内圧的かは一口に言えない気がする。

 教科編成に関わることで思い出すのは、生活科が出てきた頃、総合的な学習の時間が出てきた頃のこと。

 どちらの場合も、そのことを「待っていました」と受けとめた教員は限られた方々だったのではないか。
 この創設をチャンスととらえて授業改善を、という声も大きくアナウンスされたと思うが、現場では「教科書が欲しい」「評価をどうする」という、きわめて現実的な声だけが響いていた。

 そして今、生活科も総合も確かに定着したように見えるが、実際にその創設を意図した方々が描いた姿になっているのだろうか。
 教育行政の変遷、現場の様々な制約…そうしたことを理由に挙げるのは簡単だ。
 しかしやはり実際に授業を進める教師に踏み出す力が弱ったことは認めざるを得ない。
 また、それを励ますように関連した機関も動いたのか。「絵に描いた餅」のような話という印象しか残っていないのは何故なのか。

 ともあれ、「授業からの解放」の章に書かれている「出会いの場を規制している枠」として、「計画」の次に出てきた「教科書」「時間割」「正答主義」に、私たちは見事に規制されている。

 そのことに気づきながら動けないでいる、動かずにいるわけを挙げてみることは大切だし、もう一度現況と照らし合わせる必要性は高い。この国の今年、特にそう思う。


 さて、個人的にきわめて関心を持った箇所がこの本の中にある。
 ドイツのフレネ教師が用意し対応しているというワークブックの例が紹介されていることだ。
 「一年生に、数学の『8』を教える際のワークブック」の構成である。

 「①新聞や雑誌から、八個、八人、八冊等具体物の8を見つけて、切り取ったものを貼りつける」から「⑪マス目三つを使っての8の合成分解」まで、実に細かく構成されていて興味深い。

 「一斉授業でなく、個別作業として仕上げていけるように工夫してある」と記述はあるが、具体的にどんな使い方をするのかまでは書かれていない。

 いずれにしても「学力」を支える大きな基盤になっていることは確かだろう。
 その部分に強い興味を覚えたことは、「教える材料」や「配列」、「様々な視点」などが自分なりのキーワードなんだなと改めて思う。
 本の趣旨とは少し離れた発想になるだろうが、そんな仕事もしてみたいと心を動かされた。