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風葬の教室の始まりは絵だった

2011年08月19日 | 読書
 鳥獣戯画という素敵な絵を社会科の教科書で見たことがあります。

 『風葬の教室』(山田詠美 河出書房新社)は、そんな一文から始まっている。
 それはどんな意味があるのだろう、と思い巡らすことになった。

 というのも、昨日は午前中に所属している研究会で、来月の授業研究会に向けて指導案検討が行われ、そこで取り上げられた教材が、「『鳥獣戯画』を読む」という説明的文章だったからだ。
 
 家に帰り、夏休みもあと少しだからのんびり小説でも、と買い置きしていた一冊を取り出して、開いたら冒頭の一文が出てきたので、ちょっとびっくりしてしまった。

 『風葬の教室』は、小学5年生の女の子が「大人の目」で語るお話だ。
 主人公が転校生→好奇の目→いじめというよくあるパターンを、偏向とも呼べる成熟さの視点で描かれるので、読んでいていい気分にはならない。
 しかしまたその独特の文体にも惹きつけられる。

 私の心には墓地がある。私は死骸に土をかけてやる程、親切ではありません。

 女の子が、同級生らを心の中で「風葬」しようと決意した後の文章。そんな断片だけを拾い出すと、救いようのない存在のようにも感じるが、実は、絶え間なく心の中で生と死を繰り返す危うさは誰しも持っているのではないか、そんなふうに感じられる。

 さて、なぜ「鳥獣戯画」なんだろう、とどうしてもその問いが付きまとう。

 「『鳥獣戯画』を読む」の筆者は、あの高畑勲である。絵や絵巻物の見方を述べる解説文ということで取り上げられているのだが、鳥獣戯画に関してのまとめは、動物たちの和気あいあいさが伝わってくるというような文章だった。

 しかしよくよく見れば、確かにある面の残酷さ、容赦のなさも感じられるだろう。
 兎の目の笑いは、何を対象としているのかなんて探り出したらどこまでもいきそうだ。

 もし、授業する教室でそんなふうに感じとって、そのことを「素敵」と言える女の子がいるとすれば、「風葬の教室」はそこから始まるかもしれないと、怖ろしい妄想が浮かぶ。

 ないって。