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自分の読みに責任を持つ

2015年06月07日 | 読書
 【2015読了】53冊目 ★★★『日本語の学校』(鴨下信一 平凡社新書)


 先月、横山験也先生のブログで紹介されていた。

 これは音読や朗読に関わる者にとっては必読書の一つと言える本だろう。
 学校教育の場にどの程度取りこめるかは、いろいろと判断する必要があるにしろ、今までちょっと考えてこなかったことがある。

 最初は「間」に関することが多く、これは簡単に飲み込めたのだが(といっても、間の取り方のバリエーションの多さは新鮮だった)、次の「音色」は考えさせられた。

 著者は、こんなふうに繰り返して、音色を強調する。

 「音色」が日本語の本質

 音色こそ日本語の秘密



 例えば、黒川伊保子著の『日本語はなぜ美しいのか』『怪獣の名前はなぜガギグゲゴなのか』に通ずることがあるように思うし、まったく不案内ではあるが能や歌舞伎などの声に惹かれてしまうこととも関わってくると思う。

 また、こんなふうに書いている。

 伝染する音色

 これは「赤いバラ」と「白いバラ」の読み分けによって、「赤い音色」と「白い音色」が「それぞれ「バラ」に「移る」のだという。
 一筋縄ではいかないレッスンだとわかるだろう。

 それゆえ、やはり実際に声に出してみたくなる、試したくなる、そういう類いの書である。
 きっとこれをもとに実技研修などやれたら素晴らしいだろうな…。


 一時の音読・朗読ブームは少し陰りを見せているように思える。
 しかし、声に出すために「ゆっくり読む」ことの大切さは、しっかりと言葉に向き合うことに他ならない。
 それはブームで終わってはいけないことだ。


 読む人は、自分で読みに責任を持ちなさい。そのためにどういうことを知っていたらいいか。どんなことを調べたらいいか。

 あとがきに著者が書いたこの一節は、平凡に見えるが実に厳しい一言だ。

 明日は、一年生への読み聞かせの当番だけれど、ちょっと緊張する。