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自分の限界、道徳の限界

2015年06月14日 | 雑記帳
 道徳の授業に、まともに向き合ってこなかったなあ。これは正直な述懐だ。それゆえ公開授業などもきわめて自分勝手な視点で見ている。相当の実践を積まれ実力の十分感じられる先生の授業であっても、ここはこの考えを取りあげればすっきりするのに…、ここは束ねて問い返したら…とかなり独りよがりモードだ。


 今回参観した授業も、この意見が出たならそこを深めればいいのになあと途中で思ったりした。授業者は突っ込まず、より多くの意見を待ち、拾い上げた。結果的に終末では私の考えたことも含まれる納得の収め方で、さすがだなと感服した。指導過程や発問など何ほどのものかと感じられるほど、育ちが見られた。


 特に道徳的思考が身に付いていると感じさせる言葉を、自然に子どもたちが口にしたとに驚いた。「道をつくる」「てんびんのように考えて」「スケールの違いはあっても」…生き方や思考に直接結びつく言葉が、授業の中で発せられることは、読み物資料内の言動に深く入り込んでいて、自分と周囲を重ねつつある。


 分科会の助言者が、道徳的実践力と道徳的実践とは同じでないと語った。これは実に重い言葉だ。道徳の授業で育てるべきは何かはっきりしているが、その成果をどの時点でどの地点で評価できるか、という大人側の問題と言っていい。一時間の授業でも判断できるし、長い年月でも判断できない、という矛盾を持つ。


 もう一方の助言者が話した『心のノート』から『私たちの道徳』へ移行した背景の一つも興味深かった。教科化をにらんだ教科書作成に絡むことは当然予想されるが、民間のノウハウを活かすという言葉で結局は読み物資料に納まっていくのであれば、旧態依然としていると思わざるを得ない。道徳の限界も感じる。