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決定力についての決定

2015年06月17日 | 雑記帳
 サッカーファンならずとも、昨夜のシンガポール戦はいらいらとした気持ちで観たのではなかろうか。圧倒的なボール支配があっても肝心の点数がとれない。強化試合の順調さを見ているだけに、まったく裏切られたような思いを抱いたのではないか。そして繰り返されるのは「決定力」という言葉。宿命なのか。


 「決定力不足の…」という、決定力について決定力の不足したような文章を書き散らしたことがある。あれから7年経っても状況は変わらない。ちょうど昨年の今頃のワールドカップ後にも、幾度となく目にした。あの頃、糸井重里がほぼ日「今日のダーリン」に書き残した文章で、その決定力に触れたことがある。

 「決定」したところを見たから、
 結果論として、そこに「決定力」があったのだとも
 考えようとするのだけれど、そうじゃないんだよなぁ。
 「決定力」は、決定する前の動きから、
 すでにむんむんと漂っているように思えるのだ。



 今回の日本代表チームに、それが漂っていたか。どう見たかは人様々であろう。欧州有名クラブへ移籍する選手も増えた。監督も変わった。中心選手らが語るモチベーションが下がっているわけではない、新しい力も台頭してきた、そして強化試合等は順調にこなしてきた。そのレベルが如何ほどか。糸井は続けて書く。

 たぶん、それは「経験」というものと、
 強く関係していることなんだろうなと思う。
 (略)
 当事者として「決定」に関わった経験が、
 しだいに身についていって「決定力」になるわけだ。



 対戦するチーム競技スポーツ。特に相手と身体の接触がある種目に関して、日本人の弱さを指摘する声がある。試合後のハリルホッジ監督が喋ったことに「狡賢さ」といったニュアンスもあったように聞いた。武士道精神が重く足を引っ張っているのか。潔さをどのレベルで見せるか、これにはやはり多量の経験が必要になる。糸井の結論はこうだ。

 「本場でもまれてくる」なんていうことがあると、
 圧倒的に真剣な「経験」が蓄積される。
 この「経験」というものの絶対量が
 「決定力」になって表われるんだとしたら、
 これはねー、身につくまでに時間かかるよねーー。