すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

流行らせようぜ、生産的怠慢

2015年06月21日 | 雑記帳
 先日必要があり自分のブログに検索をかけてみた。目的とした事柄とは別に、おうっと思うような言葉と再会した。「生産的怠慢」。9年前の文章に「15年前の学級通信を~」と記してあるので、二十数年経つということ。気になってネット検索をしたら…なんと言葉として完全ヒットしたのは我がブログのみだった。


 とすれば、どんな本を読んで「心にしみた」のだろう。教育書だったろうか。実際あまり売れなかったものだろう。しかし、自分にとってはぐんと深い。中身の例として挙げた「指示されない読書」「中断されない思考」「目的のない会話」…姿としては怠慢にしか見えないこれらの行為、取り戻したい気がする。


 週末に同期会があった。三次会で隣席になった地元製造業で要職につく同期と話した。人員管理的な話になり、現状の厳しさをお互い慰め合った?わけだが、その中で彼が「昔はぼやあっと煙草をふかして、あれこれ考えを巡らせることがよくあったが…」と言ったことを聞き、かの「生産的怠慢」とフィットした。


 「今ならそんな姿は、何してる!の一喝で…」と続けた言葉を聞くまでもなく、駄目社員的な烙印となる。某有名企業の「カイゼン」を追随するように様々な合理化が図られ、「姿」として見えていること、証拠書類などが必要になっている。ところがそんな態勢や体制で抑えられるものもあることをみんな知っている。


 教育現場でも「生産的怠慢」を声高に叫ぶことは難しい。余暇の効用、リラックスの重要性…などと着飾った言葉で代替えしていくしかないのだろうか。高度成長期の日本は、働け稼げ歯を喰いしばって頑張れで覆われていたが隙間や緩みはあった。今それらが埋められて息苦しい。「消費的勤勉」と見える姿もある。