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そうか、君も同い年だったか

2015年06月04日 | 雑記帳
 勢いでそんなふうに書いてしまったが、「君」と呼べるほど親しいわけでもないし、君は僕のことなど知らない。しかし僕にとって君は、その存在を知ったときから常々気になっていた。それゆえか、直接君と共に暮らそうとはせず、ライバルと目されるものを手元に置いたりしたんだ…と、ずいぶん引っ張ってみた。


 岩波書店『波』の今月号は「特集 広辞苑刊行60年」である。1955年に刊行され、累計1100万部であるそうな。職場等では手にしていたが、個人としては購入していなかった。もっとも電子辞書に入っているから、三つはあるか。ほぼ毎日使っているから、ずいぶんと付き合いは長いわけだ。執筆者たちも同様だ。


 6名が各々の思い出や思いを語っている。鈴木敏夫は「広辞苑の御利益」という題で、「持っているだけで安心する」と書く。この感覚はわかる。昔、無人島へ持っていく一冊は国語辞典だろうなと考えていた。言語や知識に対する憧れなのだろうなと思う。小島慶子の「コウジと私」も、その手の愛着を述べている。


 マイク・モラスキ―なる日本文化研究者は、「『国語辞典』という問題」と題した。読む前に、「問題」とは「国語」ということだなと予想したら案の定だった。加えて「英和」「和英」「漢和」「古語」と並べて比較すると「国語辞典」という特殊さにも気づいてしまう。つまり国語とはどこまでが範囲なのかという問題だ。


 6人目は話題のピース又吉直樹。「広辞苑の予言」という題で、自分との関わりを、一つの物語のように仕上げた。売れずに何も買えない時期に広辞苑を買った又吉は「広辞苑は自分と言葉の距離を近付けてくれる」と書く。自分の妄想を、広辞苑によって事実と照らし合わせていくような作業をしているのではないか。