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瓦礫はまだ残っているのだ

2015年06月16日 | 雑記帳
 大震災から少し経った頃か、「瓦礫という言葉を使わないでくれ」という訴えがあったことを覚えている。自宅を流された方々が、連日のように報道されるその言葉に反応してしまうことは無理のない感情だ。傍観者の想像力欠如を鋭く指摘された思いがした。言葉の意味は、取り巻く出来事や場で大きく左右される。


 「瓦礫」は「かわらと小石、破壊された建造物の残骸」という意味を持つ。そしてそこから派生した「価値のないものの集まり」という意味にも使われる。表面的には残骸に過ぎないそれらを、価値がなくなったということにできない心情。それは思いが詰まっているからであり、物質にも風景にも宿るものだろう。


 福島の旧警戒地区に残った牛を「動くがれき」と言った役人がいたという。処理的な視点であることに間違いない。どのような解決があるのかわからないが、そこへ置き去りにされた牛を飼い続けている人間もいる。その思いは損害賠償請求という表面的なことでは括れない。経済的価値も一元的ではないということだ。


 唐突だが、本校にある石碑「故里の山河美し故里のこころ美し」(井上靖)を見て、ふと気付いた。多くの被災者は「心の瓦礫」を消し去りたいという思いなのではないか。困難だけれど、その過程でしか道は開けない。とすれば結果や進捗は気になるが、一緒に進んでいるという感覚こそ励まされる。出来ることから。