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重く深いキニナルキ

2015年06月05日 | 雑記帳
 講談社「読書人の雑誌」と銘打った月刊誌『本』の今月号は、気になる表現がいくつかあり、少し考えさせられた。


 せっかく高度な社会に生きているのだから、何百年か前のように家族しか信用できなかったり、親戚同士でしか助け合えなかったりするのではなく、もっと社会の仕組みを信用して良いのではないか。(山崎ナオコ―ラ)

 基本的に自分も社会を信用している。
 信用しているからこそ、日常生活が営めているはずだ。
 しかし、今の多くの制度は信頼するに足りるとは思いつつも、一方では山崎が言っていることと反対の方へ思考が動いていることも認めなければならない。

 社会の仕組みをあまり信用せずに、自力で解決し、身近な周囲で助け合っていけばいいのではないか…。
 そんなふうに作り上げていくべきではないか…。

 こう書いてくると、その自分の思考そのものが、社会を危うくしているのではないかということに思い至る。

 制度やルールに身を委ねて受身でいる存在も認めよう。
 そのうえで、自らが社会の一員としての参画や参加によって、維持したり改善したりする動きを絶やさぬようにしよう。
 これが基本的な姿勢になるか。

 仕事に就いているうちはそんなに意識しなくてもいいのかもしれない。
 しかし確実にこれは近いうち直面する、とても大きな問題なのだと思う。



 どうやら現実の日本人は昔から繋ぐことが得意でないらしい。(木村英紀)

 理由として著者は「職人好き」「単体好き」「情緒や感情に動かされやすい」という特徴を述べる。
 個別的な理由は、日本人の長所そして和文化といわれるものにも結びつくことだが、それらはある意味で閉鎖的であったからこそ花開いたとも考えられる。

 システム思考の欠如ということは容易い。
 それはなぜかと考えて、著者が指摘するこの日本人の性向は、なるほどと思わざるを得なかった。


 ものごとをその背後にある大きなシステムの枠で捉えるよりも、特定の個人や組織に起こった具体的な事実の方に関心が向くのである。(木村英紀)

 同じ仕事を三十数年も続けていれば、「大きなシステムの枠で捉える」ことはできる。
 しかし、その改善についてはまったくの無力感を積み重ねているし、多分にシステムが背負っていることによって引き起こされる「具体的な事実」にあたふたしているだけなのである。