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英語の日本化という姿勢

2015年12月20日 | 読書
 【2015読了】124冊目 ★★★★
 『日本人はなぜ英語ができないか』(鈴木孝夫  岩波新書)


 久しぶりにこの表現を使う…「目から鱗」の本だった。横山験也先生のブログで紹介されていたので注文、しばらくの積読状態を経て今週読みだした。英語教育については概ね賛同しながらも、何かひっかかりを感じていた。それが何故か深く突き詰めてこなかったのだが、この本の内容に首肯する自分がいた。


 「日本のこれまでの外国語教育には自己改革、自己改造の傾向がきわめて強い」


 他の教育でも考えられるが、外国語を習得しようとするとき、それは明らかにその国及び人から、固有の、もしくは関連付けられた知識を得、そこから認識を深めていきたいという心がある。ごく当然の思考だと思ったが、例えばアメリカ人はそうでなく「相手を変え」自分に合わせることが目的になるというのだ。


 国民性という言葉で括りがちだが、外国語習得に関する思考パターンが典型的と言えるかもしれない。単純に英語で話せたらいいな、コミュニケーションをもっとスムーズにという思いは、実はその奥で相手に合わせるという心性の表れになる。そういう姿勢の是非は時代の流れによって変わるという認識を持つべきだ。


 「日本人の、社会的な場面における自己規定のしくみ、つまり『私は誰か、何者か』という自分の座標決定が、相手に依存する相対的なものであるためと考えられます」



 日本人が米国人から英会話を習うときの不安定な心理状態の構造を、そんな言い方で解き明かしている。依存性の強さは国際社会における日本の政治的行動を見れば明らかだ。その意味で強いリーダーを求める気持ちが湧くのは自然だ。現在の体制が志向するものと結びつきそうだが、そこは目を凝らさないといけない。


 「日本人が今や国際補助語になった英語を使って、日本側からの情報発信を増やす」ことが、著者の英語教育のねらいと言える。例えば「国際理解」を中心にした内容は非常に優先順位が低くなる。あくまで「入れ物」としての英語に盛るのは、日本人の精神、文化。「英語の日本化」という言葉はとても魅力を感ずる。


 この新書が出てから十数年。著者が提案しているような英語教育になっているか、否か。小学校英語の現在でいえば、流布している教材では、まだまだと言える。中高等教育につながる教育課程も大きな変化はないようだ。まずは指導者の姿勢か。ちなみに私はALTに対する朝の挨拶は「お早うございます」である。