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「ほうがいい」という捉え方

2015年12月11日 | 読書
 【2015読了】122冊目 ★★★
 『平常心のレッスン』(小池龍之介  朝日新聞出版)


 初任の時に受け持った学級で「好きな言葉」を訊いた時、「ラク(楽)だな」と呟いた子がいた。昭和50年代の雪深い山村であっても、そういう風潮はすでにあったのだ。この新書で「喜怒哀楽」について書かれた文章を読み、「楽」が一番のポイントと知ったときに、ふと昔のことが蘇ったのは何の因果なのだろう。


 仏道での「喜怒哀楽」の捉え方について、問いが立てられて「あえて」という形でまとめられた一言は次のようであった。

 「喜」はあったほうがいい。
 「怒」はないほうがいい。
 「哀」もないほうがいい。
 「楽」はあったほうがいい。


 なんだ、誰しも思うことではないか、結局「快/不快」の問題ではないか…と早急に決めつけられない。最終的に「喜怒哀楽」そのものを強く肯定しないという視点なのだ。文章として「ほうがいい」に強く表れている。「喜」と「楽」もいいが「怒」や「哀」が出てきても仕方ない、というのが平常心の姿勢である。


 「喜怒哀楽」のレッスンを考えるときに大事な点が示されている。それは「慣れ」ということ。快を引き起こすドーパミンの分泌と結びつけて、結局のところ快が続けば「もっともっと」という状態になり、それは不快としか言えなくなる点についても考えさせられた。快が「同じ強度で反復できない」ことも納得だ。


 「資本主義というシステムの巧妙さ、恐さ」に気づいている人は多いけれど、構造を知るだけでなく、消費的な感情や行動の連鎖をどこかで断ち切らなければいけない。例えばこの言葉を噛み締めたい。「サプライズ(驚き)は心に毒」。むろんその質にもよるが、仕掛けているようで仕掛けられている自分も見極めよう。