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考えたらシヨウがない話になった

2017年02月01日 | 雑記帳
 先日聴いた講演で映されたPPT画面の中に「即自的」「対自的」という言葉が出てきた。急ぎ足のようでその文章の説明がなかったので、どうにも気になった。目にしたことがあるように思うが、今一つ意味がはっきりしない。調べると「即自」「対自」は哲学用語だった。「的」をつければ、使える言葉だろうか。


 ネット検索してみたら、こうだったが、なんだか難しい。ちょっと使えそうにない。
 https://kotobank.jp/word/%E5%8D%B3%E8%87%AA%E3%83%BB%E5%AF%BE%E8%87%AA%E3%83%BB%E5%AF%BE%E4%BB%96-1556692



 単純に言い切ってしまえば「即自」はいわゆるジコチューということか。「対自」は自分を対象化できるということのようだ。どちらがより高い価値かではなく、対立・矛盾を抱えながらも止揚していくという考えだ。おおうっ、久しぶりに、止揚という言葉を使用した(念のためシャレ解説は「シヨウという言葉をシヨウした」)


 止揚アウフヘーベン…もはや懐かしい。この言葉はおそらく高校か大学で習ってはいたろうが、はっきり認識できたのは仕事に就いてから、ある文集で見かけた先輩教師の文章だった。人間の進化、成長を考えるうえで欠かせないキーワードとして、印象付けられたことを覚えている。そんな仕事をしたいと願った。


 時の流れとは怖ろしく、いつのまにか現実社会に飼養されて、止揚も枝葉のごとく忘れ去ってしまったか(念のためシャレ解説は「~社会にシヨウされて、シヨウもシヨウのごとく~」)。代わりに何が幅を利かせてきたか、振り返ってみると、「即自」や「対自」そのものではなかったか。対立・矛盾を直視しなくなってきた。


 もちろん世界中を見渡せば、対立・矛盾だらけに見えるのだが、その解決の糸口探しがどこか白々しく思えたりする。地球規模の大きな話でなくとも、身の回りの家族、知己レベルでも、本当に現状を把握し、より良い未来を志向しようと、高い次元で思考し行動しているのか…いや、まず自分が即自と対自を並べよ。