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自由問答・参

2017年02月19日 | 雑記帳
 水泳に「自由形」がある。周知の通りクロールという泳法のことを実質的に指しているわけで、なぜクロールと呼ばないのか、これも疑問だ。それはさておき「自由形」は本当に自由かというと、これも周知のように違う。あくまで泳法選択であり、潜水できる距離の制限はあるし、歩いたり蹴ったりも違反である。


 結局スポーツのいわゆるフリースタイルとは、種目中において制限の幅が一番緩いだけである。当然だがルールとはそうやって出来る。つまり「制限の中での自由」。しかし人生という有限時間のなかではもう少し緩いはず。従ってどんなふうに泳いだっていい。泳ぎ方を途中で変えても構わない。最低限のルールさえ守れば。



 それなのに、ああそれなのに。自分は自由に生きていると堂々と言える人が何故こんなに少ないのだろう。戦国時代や封建時代とは違った形での「支配」が私達を抑えつけているということがあるからか。そして個を見れば、スキーで喩えたように、自由につまり自在に滑るための技術が足りない人が多いからなのか。


 十数年前、研修である工房を訪問したことがある。主人の生き様を見て「自由人」だなと感激したことを覚えている。話の中で、今の仕事を得るまでいかに「仕込み」が大事かを強調されていた。それは、自由を得るためには不自由さが強いられる時期があることを証明している。俗論ではあるが、見逃せない真実だ。