すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

軽食設定が心を見つめさせる

2017年02月05日 | 読書
2017読了11
『峠うどん物語(上)』(重松 清  講談社文庫)

 重松小説も久しぶりだなあと思いつつ、検索したら2012年以来だった。雑誌の対談記事や原作ドラマを観ているからか、そんなには間を置いていないと思ったが、意外だ。読みだすと、ああシゲマツだなあと感じることがいくつもあった。やはり小中学生を主人公(視点人物)にするのはお手の物、するりと読める。


 舞台設定も絶妙だ。ある国道の峠にあるうどん屋「長寿庵」と名乗っていたが、向かい側に市営斎場が立てられ「峠うどん」と名を変えた。老夫婦が営むその店を手伝う中学生の孫娘が見る人間模様…。当然、登場してくる人々はお通夜か葬式に参列したり、関わったりする。「死」を取り上げることで「生」を動かす。



 映画の『お葬式』『おくりびと』という名作、また最近では『アントキノイノチ』など死にまつわる仕事を扱う作品はいくつか観ている。娯楽として観たり読んだりしているが、もし身近にあればという問いが浮かぶのは自然だ。それは、小説中にもある「メメント・モリ」(死の意味)を誰しも根源的に抱えているからだ。


 齢相応に葬礼に出る機会が増えた。関係の深浅の違いはあっても、その度に納得のいく見送りを願う。しかしその形は様々であり、口を挟むことなど許されない。だから見つめるのは、いつも自分。見送り後に立ち寄るうどん屋というある意味「軽食」設定が、多彩な人の心情を吐露させるし、より深く見つめさせる。


 この話には複数の小中学生や若者が登場し「悲しめない悲しみ」について考えさせられる。同じ経験が自分にもあったと五十年ぶりに思い出した。死を迎えることだけは誰に対しても平等、そこまでの道は不平等だけれども、あまり気にしては進めない。この新名言!をどう受けとめるか。「案ずるより死ぬがやすし