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無自覚な道徳律~名著拾読

2017年02月25日 | 読書
 『「空気」の研究』(山本七平 文春文庫)を読み始めた。40年前に発刊された名著である。書名は知っていたが未読、読みかじるかと買い求めた。難しい箇所もありそうだ。しかし、冒頭に面白いエピソードが載っている。教育雑誌の記者から、道徳教育について何から始めたらいいかを問われ、著者はこう答える。

 「それは簡単なことでしょう。まず、日本の道徳は差別の道徳である、という現実の説明からはじめればよいと思います。」



 あきれ、あわてる記者を相手に、著者は当時起こった爆破事件を例に、居合わせた人たちの行動をもとにしてその意味を説明した。「知人・非知人に対する明確な『差別の道徳』」という表現で、私たちのなかにおそらく無自覚にある道徳律を明らかにしている。困っている記者を前に、さらに続けたことも非常に痛快だ。

 「日本の道徳は、現に自分が行っていることの規範を言葉にすることを禁じており、それを口にすれば、たとえそれが事実でも、“口にしたということが不道徳行為”と見なされる。従ってそれを絶対に口にしてはいけない。これが日本の道徳である。」



 確かに私達いや少なくとも私は、この言葉に納得せざるを得ない。小さい頃から自分もそんなふうに教えられてきた。それは「本音と建て前の区別」と称されたり、都合のいい場合に「言わぬが花」と美化されたコトバで誤魔化されたりしてきたことだ。そして自らを見ても次のような事実を否定することはできない。

 「結局みんな、以上のことを、非系統的に断片的に、周辺におこった個々の事例への判断を口にするに際して、子供に教えつづけてきた」


 ただ、少しは意識的であったかなと自己弁護もしたい。それは、現役のときに数は少ないが書き散らしてきた「道徳教育」への逡巡にも表れている。その後、自分も人並に道徳教育実践へ踏み出した訳を考えると、やはりそれは「空気」だったのではないかと、その拘束感の強さを今さらながら確かめたくなっている。