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「聖痕」のある小説

2017年02月23日 | 読書
 「作品のまとまりとして見れば、転調は瑕疵にも見える。もちろん、そうではあるだろう。だが、この瑕疵こそが、作品に刻印された傷跡こそが『調律師』の『聖痕』となった」この文庫版の「あとがき」を書いた仙台在住の編集者土方正志はそう記す。「聖痕」とはこう使うのか。まさに小説家は書かざるを得なかった。

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『調律師』(熊谷達也  文春文庫)



 事故のせいで、ピアノの音を聴くと香りを感じるという「共感覚」を持った主人公が、調律の仕事をしながら出合う様々な出来事。亡くなった妻との関わりをフィードバックさせながら、物語を進めている。専門的な用語も多いが、さほど気にせず読み進められるし、特殊な職人、職能の世界が垣間見える物語である。


 調律師の仕事をじっくり見た経験はない。音程の狂いを直すだけだろうという非常に狭い認識だったので、どんな仕事にもその世界しか知りえないことがあると改めて驚く。調律師とは、いわば「響き」に関する料理をするようなイメージがある。素材(部材)の吟味、部位の組み合わせ、環境の設定が際立つ仕事だ。


 7章からなるこの小説は、6章で突然の「転調」をみせる。東日本大震災を直接、筋に入れ込んだからである。仙台在住の作家が苦しんだ結果として、大きく話が展開する。しかしある面で「復興」とは「調律」に似ていて、多くの人が自分なりの技能や志を持って取り組んでいることが、象徴的に思えた題名である。