すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

知ってる「大人」がいる

2017年11月18日 | 読書
 テレビかネットだったか失念したが、「自分を大人だと思ったのはいつ」といったアンケートの結果が出ていた。予想できるように、その返答がずいぶんと高齢化(笑)していたと覚えている。自分だったらどう返答するか定まらぬままに遡ってみれば、かなり若い頃から成長実感もないし、大人到達感覚などあったろうか。



2017読了115
 『復路の哲学』(平川克美 夜間飛行)


 大好きな平川氏の文章。「復路」とは「人生の復路」という意味であり、冒頭から「大人」についての記述が多い。とてもよくわかる定義をしていた。ネット注文で買った古本、状態は「良い」でとてもきれいだったが、唯一目立たぬように小さく本の端が折られていた箇所もそこであった。こんなふうに書かれてある。

 会社においても、社会においても、多くの方が責任の所在を明確にしたがる風潮がある。しかしそれは結局、子供の論理だろうと思う。大人は、自分の責任でないものに対して、それを自分の責任であるという役割を演じる。そういう存在なのだ。


 そのように今まで出来たことがあったろうか。家族や仕事のことでいくばくか矢面に立ったり背負ったりしたことは、自分の責任の範疇でしかなかったように思う。けれど、他者の言動でそのような「大人の姿」を見た記憶が何度かある。それは今も鮮やかに蘇るし、かくありたいと心に蓄えていたことは確かである。


 ある映画のシーンをもとに推察された論が心に残った。昔、商家の「のれん」をかたに銀行から融資がされた。現代から見ればその不合理な事実は、日本人の中に存在していた「規矩と倫理観」であり、別の基準を示していたのではないかと書く。そして著者は下記のように結ぶ。これを理解できる大人でありたい。

 それは、ひょっとしたら経験値の堆積が生んだ、次数をひとつ繰り上げたところにある合理性だったのかもしれない。


 2014年刊のこの著は、今の国内外情勢を読み解く一つの視点も確かめられる。つまり90年代に米国が「死活的脅威」と認識した「日本の経済力」を、「ソフトな戦争」によって解体しているプロセスが、ここ二十数年の出来事に合致する。構造改革、グローバル化、防衛強化…すべてかの国の「作戦」にハマったのだ。