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限られた時間の中を人は進む

2020年01月25日 | 教育ノート
☆3 ボツボツと四半世紀前の事

 意を尽くす話し合いの価値は認める。
 しかし、仕事としての会議はそれを幹とはできないだろう。

 教員になった頃は、冬になると締め切った職員室にたばこの煙がたなびいていた。時にその中で繰り返される、思想や矜持のぶつかり合い…と、今は昔のはなし。


 94年5月「職員会議実施要項」と名付けて数ページの冊子を作った。

 昨年までの職員会議録に目を通し、月ごとの協議内容と提案部会、責任者を一覧にしておくことが一つだ(これは今ならごく普通になっているし、PC管理で簡単だ)。
 そして、もう一つは時間管理である。
 これは時刻明示と案件処理区分だった。
 具体的には、勤務時間を越えそうな場合は一定の時間を示して予告する。
 同意が得られれば延長、延長が困難な場合は案件を三つのパターン(担当部会一任、時間をとった継続協議、管理職一任)で処理していく内容だった。
 これによって、職員会議はほとんど時間内で済むようになった。

 「時間を守る意識」は当時もっとも強調したいことだった。
 数年前の指定校公開が拍車をかけたのか、研修会議が夜遅くまで続けられるという「伝統」があった。
 これについては少し時間がかかったが徐々に正常化できた。
 その2年後、また文科省指定を受けることになるが、この時に一定の形を作ったのは結構大きかった。

 研修を個人ですることはいくらでも構わない。しかし、他者と共に行うためには、最もマネジメントするべきは時間だ。
 ただ、その中で活発な論議を交わせなければ、単なる管理にしかならない。要は焦点化させること、柔軟な発想を呼び起こす設定や下準備だと考える。

 まとまりはつかないが、そのために結構あれこれと動き回り、浸透できたような気がする。
 今思っても、ベテラン教員は温かく、中堅層は活力があり、新人層は個性的で、いいメンバーだった。いろいろな人に支えられた。楽しかった思い出として残っている。


 職員会議実施要項を「緻密だな」と評価してくれたT校長は、職員室内の隣の席だった。
 ワープロ作業しつつ、ずいぶんと話に耳を傾けならねばならなかった(笑)し、すぐ動く態勢で待つ秘書みたいなものだった。

 「一緒にやるぞ」と声をかけられ、トンカチを持って校庭の遊具点検をする。
 さらには、「通知表を見るぞ」と言われ、校長室で全学年の通知表点検もした。
 校長が所見欄にあまりにたくさんの付箋を貼り付けるので、これではあまりに担任が難儀と「必要なし」と勝手に判断し、こっそり付箋を外してしまう生意気ぶりも発揮できるようになった。
 当然ながら、手書き、修正液使用の時代の話である。

 もっとも、このT校長とこういうひと時を共有できたのは、わずか四カ月。
 共同作業と言えるものはそれが最後になったのだった。

 夏休み。旧盆を来週に控えた日の早朝、I教頭より電話が入った。

 「校長先生がよお、なんだか身体の調子がうまくなくて…、」

 何のことだと思った。
 自宅で就寝中に急死したという意味とわかるまで、少し時間がかかった。
 さっそく駆けつけ、まだ布団の中に眠ったようにしている姿を見たことはいまだに忘れられない。
 隣席で「来年になったら、~~したい」と退職後の夢のあれこれ語った口調もまだ耳に残る。

 大変な事態であった。
 携帯電話がまだ普及しなかった時期である。葬儀に関する細々としたことも職場で行った。
 夏休み中であっても対外的な行事等は結構あった頃、停滞は許されなかった。

 休み明け、二学期が始まり、新校長を迎えて通常業務に戻っていった。

 こんなふうにしながら、痛ましい出来事を時間と共にみんなどこかへしまい込み、人は進んでゆくのだと思った。