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歴史的な混沌の中で

2020年01月27日 | 教育ノート
☆4 ボツボツと四半世紀前の事

 たしか「指導方法の改善」という名目で、ティームティーチングの職員加配が始まっていた。
 郡市内で児童数の多い学校が対象になって動き出していて、N校もその一つだった。
 滑り出しは研究主任が主担当として算数などの教科で、いわゆるT2として入るのが多かったろう。そこから教務や教頭へと拡大し、授業の持ち時数の数的な例が示されてきた。

 変わりゆく児童の実態に照らし合わせれば、妥当な策だったと思う。
 しかし、職員全体としての隙間がなくなり、効率化のもとに余裕を失っていく状況も見られた。それが「ゆとり教育」というフレーズの浸透とともに、学校の多忙が進んでいった軌跡と重なることも皮肉に思える。


 さて担任外の自分は、当初からTTよりいろいろな時の補教、あるいは、特定の内容の授業を受け持ち、担任に空き時間がある方がいいのではないかと考えていた。
 また要望があれば単発の授業をし、担任に授業の見てもらう(子どもを観察する時間として)ことが有効ではないかとも考えていた。
 たしか最初に詩の授業を行った4年生の学級で、若い担任から「ベルばらみたいだ」(懐)と言われた記憶がある。そんな演劇的ではなかったと思うのだが…。

 本格的とは言えないが、6年生の2学級に週1時間程度空けてもらい「作文教室21」と名づけ、短作文の授業を継続した。11月から2月まで各組21時間(欲しかった)構想だったが、なかなか調整がつかず十数時間で終わってしまった。
 これも、野口芳宏先生が教頭職で「作文週1時間」を受け持っていたというお話を聞き、提案したものだった。
 内容は自慢できるものではなかったが、2学級で同じねらいで進めたこと、短作文連続単元の一例を示せたことなど、多少の成果はあったのではないか。

 今、記録を見返すと、私たちの世代には懐かしい「『私は、教室の窓から外を見ていました』という文につながる一文を書きなさい」という指示からその授業は始まっていた。

 展開スタイルは「説明・例示 →記述 →発表・交流・まとめ」と時間で区切った。作品紹介も学年通信を使って行った。
 今改めてみると、学習状況調査にはずいぶん役立つだろうなと、早すぎた実践(笑)に思えてくる。
 いや、そういえば自分はずいぶん前から仮説社などの資料でこうした文章表現を志向していたことを思い出した。


 94年は歴史的と言える「自民党・社会党・さきがけ」の連立政権が誕生した年である。その騒ぎがどのようであったか、今は思い出せない。そして年が明け、1/17で始まった95年は、3月に地下鉄サリン事件が起きる。

 世の中の騒がしさが、そのまま学校現場に映しだされたわけではないが、やはり大きく舵がきられている時期であることを今さらながら感じる。
 95年度も続けて綴ってみたい。