すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

求めていたのは、それだったか

2020年01月29日 | 教育ノート
☆6 ボツボツと四半世紀前の事

 いくらでも書けそうな気はするが、思い出し疲れ(笑)も出てきたので、少し歩を速めて記し、いったん締め括ることにする。


 研究指定を受け、翌年の公開に向けて学校が動き出した。
 職員異動規模もその年度は大きく、少し様相も変わった。

 教頭が昇任し異動となったので、この年から「学校報」を書く担当となった。
 ワープロ文豪5で、写真も取り込みながら校外への通信活動がまた始まった。

 考えるとそこから退職まで途切れなく、ちょうど20年間延べ8校で学校報を書いたことになる。ふと想う。同じようなキャリアを持つ教員は果たしてどのくらいいるのか。

 微々たる上達ではあるが、間違いなく編集技能はアップした。
 量として平均しても週1以上は発行しているはずで、総計1000は軽く超えるだろう。
 今確かめたら、初年度は87号まで出していた。



 「馬音」で始まり、「馬音」で終わったことにも因縁めいたことを感じる。
 ここは思い切ってライフワークだったのかと言ってしまうか(笑)。


 さて、指定研究は「教科」「道徳」「特活」の3分野でそれぞれに進行していった。その詳しくはあまりに膨大になるので書かないが、いくつか印象深く忘れられない点がある。

 一つは二年目、公開に向けて最後の指導主事訪問だった。
 授業参観し、研究協議をし、指導助言をうけるいつものパターンである。
 その場を総括する担当主任指導主事の助言は、ずいぶんと改善指摘が多かった。
 もちろん評価していただけた点も少なくなかったが、自分自身はその助言全体が腑に落ちなかった。
 公開日まであと三か月ぐらいではなかっただろうか。

 普通はタブーのことなのだろうが、細かい点を含めて反論の手紙を出した。
 そのいちいちは覚えていないが、大きく二つ、教育事務所としての一貫性を問うこと、そして指導助言が職員の励ましとなり得たかというメンタル的なことだった。
 あくまで私信であると断り、思いの丈を述べたことに後悔はなかった。
 学校に対する見方、私個人に関することで、何らかの影響があったはずだが、表面的な大事にはならなかった。

 もう一つは研究紀要の改善である。
 「読まれる紀要」への試みであり、典型的なのは巻頭言に換えての「巻頭対談」という形だった。
 校長と教育長に「豊かな心」をテーマに語ってもらい、それをまとめた。
 何が「豊か」かは、それぞれに異なるだろう。
 しかし、少なくとも意義のない前例踏襲は辞めたいと思った。

 その後、どんなふうに波及したかはわからないが、そんなこともできる、こういうやり方もあるのだなと、少しでも心に留めてもらえたように述懐できる。


 上の娘が3年生の時赴任し、卒業するときまで4年間在職した。
 その学年2学級に対して、同一展開で「やまなし」の授業をすることもできた。
 職員で「劇団馬音」を組織して、学習発表会や祝賀会等で演じたりもした。

 よく動いたなあという思いがふつふつと湧いてくる。


 今「働き方改革」という言葉を聞くたびに、学校現場を想像して気にかかるのは「働き甲斐」という点だけである。

 ただ忙しく目まぐるしく過ごした時期ではあった。
 しかし、確かに「働き甲斐」はあったなあ、と四半世紀前を強引に括ることはできる。