すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

素質を資質が追っていく

2008年10月15日 | 雑記帳
 ある教育雑誌を見ていたら、金メダリスト北島康介を育てた平井コーチの言葉が紹介されていた。その中の一文。

 一流選手の素質は『素直さ』、コーチの資質は『素質好き』に尽きる

 ちょっと面白いと感じた。

 まず「素質好き」という言葉。そんな言い回しは初めて聞いた。では「素質」って何だということになる。
 広辞苑では
 ①本来具有する性質
 ②個人がうまれつき持っていて、性格や能力のもととなる心的傾向。特殊な能力などについていう。
と書かれてある。
 ここでは②が妥当だろうし、特に「特殊な能力など」という箇所が近いだろうか。レベルの差はあるにしろ、ある面でやや人より抜けて能力を発揮できそうだということだ。これもやはり心的傾向というのだろうか。

 さて、もう一つ「一流選手の素質」に対して「コーチの資質」とある。ここでの使い分けはなんだ?「資質」って何だということになる。
 同じく広辞苑では
 うまれつきの性質や才能。資性。天性。
とある。
 少しわかりにくい。ここで類語辞典。

 【素質】生まれながらにして備わっている才能
 【資質】性格的な事柄を含めての素質

 この区分けからは、資質の方が「性格」をやや重めにとらえているということだろう。
 スポーツなどの一流選手が素質で、コーチは資質というのはなんとなくわかる気がする。

 しかしそうしたら、先のコーチの言葉が「素質」として「素直さ」という性格を(一番に)取り上げるのはどういうことだろう。
 つまりこれは、身体的能力は素質としては当然であり、そうした数多の選手がいる中である一部の性格が傑出しているという表現なのだなと思う。それに目をつけられるのは素質ではなく、資質ってことか。

 結局、素質と資質の違いははっきりしない。
 しかし例えば「歌手の素質」は一般的だが「教師の素質」とは言わない。逆に「教師の資質」とは言うが「歌手の資質」はあまり聞いたことがない。
 これは、もしかしたら偶然性の高いものとそうでないもの、流動的・拡散的なものと固定的・形式的なものという使い方なのかもしれない。
素質のある者が先にあり、それを資質のある者が追うという見方もできるかな、とも思い浮かぶ。

 だから、コーチや指導者は「素質好き」になって追いかけていく。強引な結論でした。

コドモもオトナも

2008年10月13日 | 読書
 書店の文庫本のコーナーに、『コドモのコドモ』(宮下和雅子著 双葉文庫)があったので、ああ例の映画の原作本かと思ってすぐ購入した。

 読み始めてから、改めて中身を見るとこれが「映画ノベライズ」つまり脚本を小説にするパターンの作品、そもそも本の帯にもそう書かれているし…
と、まあそんなことはいつものことではあるが。

 本県の能代市が舞台となっているというのでそれなりの関心はあったが、それ以上に小学生の妊娠、出産を扱うということについて知っておきたい気持ちを持っていた。
 学校現場にいる者からすると舞台設定には多少の違和感もあったが、ある程度予想される展開ではあった。

 小学生の妊娠、出産について、もし現実にそれに似通った場面があったとすれば、それはおそらくこういう言い方をされるだろう。

 事故

 非行、問題行動、事件、あってはならぬ出来事…いろいろな言い回しがされようが、やはり事故を使う気がする。
 その言葉で説明し、納得し…といいうことになろうか。
 しかしよく考えれば、どんな種類の事故にも原因があるし、どんなに偶然性の大きい場合にも無理や無茶、過失はどこかにあるはずだろう。その点を考えなければいけない。
 そしてもっと課題なのは、事故にどう向き合うのかということだ。いつも問われる肝心なことだ。
 それを取り巻く人間が、今後どの程度の注意と関心を、その事故に向けられるか。

 きっと人生観のような大きな枠組みとその現場だけが持つ対処の仕方を、どう絡ませることができるか、という個々の視点で悩む…。この設定はかなり難題だ。
 登場する人物たちも悩んでいる。しかし、小説を読んだ限りではこの描き方では見えてこない深さがまだあるように感じる。

 ただ秀逸だと思ったのは、章ごとにつけられた小見出し。
 題名に引っ掛けられているのだが、意味ありげなネーミングであり、その意図が明確に出ていると思った。
 この四つが特にいい。

 コドモなコドモ  オトナのコドモ 
 コドモなオトナ  コドモのオトナ

 自分もどれかにあてはまると困る?「オトナのオトナ」がないしねえ、なんて考えたりしながら、つまりこの作品は、「コドモ」の存在の見方を問いかけているんだね、と結論付けた。

自然保護を口にすること

2008年10月12日 | 雑記帳
 金曜日の研修会で、日本自然保護協会自然観察指導員などたくさんの肩書きを持つ半田克二郎さんの話を聴いた。

 1時間半ほどの講演のベースとなっているのは、冒頭部分でおっしゃった。次の言葉だろう。

 豊かな自然って何だろう
 
 秋田県人に本県の良さを尋ねると、アンケートでは必ず「豊かな自然」が上位になるという。頷けるし、自分もその選択肢にマルをつけるかもしれない。
 しかし一歩立ち入って「自然」を考えれば、本当にそう言いきれるかどうか…半田氏の言葉は、そこを本質的についてくる。

 例えば、ブラックバスが果てしなく拡がってきたこと、例えばイモリがいなくなっていること。そして、以前に観察会で連れていった小学5年生が誰一人「杉」の木を知らなかったこと…足元の自然についてそういう体験をしない、事実も知らない子どもが(大人もそうだが)、「自然保護」を口にしていいものなのか。

 「環境を守る」という意味は結局どういうことなのか。
 特定の生物を保護しようとした場合、それは自然界の連鎖を考えることにつながる。そういう見方を私たちはできているだろうか。見えることばかりにとらわれているのではないだろうか。

 人間に都合のいいものも悪いものも全部含んで自然である

 半田氏のこの言葉も重いと思う。
 自分たちの便利さとどう折り合いをつけていくべきか、格好いい結論など出てこない。

 最後に白鳥の餌付けの話題がでた。
 隣市でそのスポットがあったが、例の鳥インフルエンザで出来なくなるだろう。氏は白鳥の渡りの実態に触れ、こうなったことを歓迎し?こんな言い方をしていた。

 人間ができるのは餌を与えることでなく、餌がとれる環境を作ってやることだ

 餌付けによる鳥の本能や力の減退…これは子どもの教育にも言えるなあ、と一人納得してしまった。

見ているのは風、自分の内…

2008年10月11日 | 読書
 昨日書いた『ねむりねこ』(伊集院静著)の中に、もう一つ心にしみ入った文章がある。
 「風を見る」と題されたその小編は、氏が定職につく前に8年逗子に暮らした頃のことである。この頃の体験はよく随筆や小説の設定として使われているようだ。
 この時期、氏はある先輩から「毎日一度海を見て、それを描写した日誌をつけるように言われ」、殴り書きを始めたという。そして、それを一年余り続けた。
 厄介だと愚痴を言いつつ、海の色調、様相の変化を見つづけた。そして海の描写を記したのだが、こんなふうに述懐する。

 振り返ってみれば、あの八年は、海を見ていたのではなく、海を波立たせる風を見ていたのかもしれない。

 この文章は「しかしよく考えると」と続き、風自体がつかみどころがなく、かたちないものであるから、こういう収め方となっている。

 かたちのない自分の内に在るものを見ていた歳月とも言える。

 今、自分は「定点観測」という言い方をして、あることを続けている。
 それで何か少し見えるような気がしてきたこともある。
 しかし、氏の文章を重ねてみると、観測している対象は自分の思っているそれでなく「風」であり、「自分の内に在るもの」だということに、今さらながらに気づかされる。

文士が花を見れば

2008年10月10日 | 読書
 まったくの植物オンチである。
 どういうわけか名前もよく覚えられない。

 こういう自分は作家伊集院静の愛読者の一人だが、さすがに草花のことがさりげなく書かれた文章は、その面の知識がなくて味わい尽くせないことがしばしばある。

 九月発刊の文庫『ねむりねこ』(講談社文庫)も、そうした類の文章が目に付く随筆集だった。

 鉄線  石蕗  下野草 …

 花に喩えた文章のイメージがわかないのが、少し悔しい。
 しかし、色や形ぶりに違いがあるがいずれも派手ではないことが読みとれる。野にあり、他の邪魔にならぬよう、それでいてたくましく命を咲かせようという姿は共通のものではないのか。
 氏が文章に描き入れる花は、ほとんどそうした設定である。
 そういう氏の心の有り様を物語るこんな文章を見つけた。

 花屋の花には生存競争で生き残った生物の残酷さがある。あわよくば隣に咲く花も喰ってしまうのでと思える強靭な面構えをしている。

 そんなふうに、店頭の花を見つめたことはなかった。
 様々な場の、たくさんの花を眺め、その違いに思いを馳せ、美しさを感じとってきたからこその言葉だと思う。それゆえ「文士」なのだと思う。

 上の文章は、こう続く。

 それは人間にも言える。


自嘲で自己完結

2008年10月09日 | 読書
 『脳を活かす勉強法』(PHP 茂木健一郎著)
 去年の12月初版でもう31刷となっているので、かなりのベストセラーだと思う。大型書店では平積みであった。脳科学の知識も少しは欲しいなと軽い気持ちで読んでみた。

 そんなに目新しいことが書かれているわけではないが、自身の経験や仕事で出会った一流人たちのエピソードがあり、読みやすい本となっている。
 ドーパミンをいかに分泌させるか、ということが全体のテーマとなっているが、要は「楽しむ」感覚で学習に向かうということだ。その楽しむための頭の使い方が、様々な側面から語られている。

 見落としていけないと思った文章は、これだ。

 気をつけなくてはならないのは、自己完結したものには意味がないということです。価値ある「知」を手に入れるには、人と人とのかかわりの中で育てていかなければなりません。

 ネット上の知識、情報の素晴らしさを語り、存分に活用している著者が、その点を強調することはかなり重要である。
 そしてここでのかかわりは、実際に出会うことの大切さを述べていて、そこで伝わるものの大きさはやはり決定的なのだと改めて思う。

 本当に知識の深い人とのかかわり

 出かけて学ぶこと、招いて直に話を聞くこと…自分でも心がけてきたことではあるが、時々後ずさりしていることに気づく。今年は明らかにペースが落ちた。自己完結にも及ばぬレベルで寂しく冬は迎えたくないものだ。

 となんだか自嘲で終わってしまった。

借り物を演じない

2008年10月08日 | 雑記帳
 『男の絵手紙』(小池邦夫著 中央公論新社)という本がある。

 この中で、著者から「究極の、男の絵手紙」と称された男がいる。
 著者はこうも書く。

 自分の言葉か
 自分の好きな言葉しか書かない。
 借り物を描かない。

 これは、彼の人生そのものでなかったか。
 好きな俳優の一人であった。

 緒形拳

 なんといっても、それは「太閤記」から始まった。
 幼い自分にとっての、NHK大河ドラマデビュー(視聴したという意味)である。
 なんといっても、それは「必殺仕掛人」である。
 人を殺すという役回りを、きっと初めてかっこいいと思った藤枝梅安である。
 いつも強い役だけではなかったように思う。
 例えば「鬼畜」、例えば「楢山節考」…切ない視線だけが、妙に頭に残っている。
 その年代、時代に沿うように演じてきた役回りは、どれも存在感があった。

 やはり、緒形拳でなければ演じられない何か…いや、きっとその役を自分に引き込むという感性が並外れていたのだと思う。
 語る言葉、書く字もきっとそうだ。そのことが「借り物を描かない」ことなのだ。
 俳優という職業でいえば、まさに借り物を演じるのが仕事であるが、「借り物を演じない」という高みがそこにあるはずだ。

 合掌。

方言の強さにふれる

2008年10月07日 | 読書
 思い立って、書棚にあった『CDブック 声に出して読みたい方言』(齋藤孝編 草思社)を手にとってそのCDを車で再び聴いてみた。

 もう4年以上も前に聴いたものだが、うっすらと記憶がある。
 津軽の伊奈かっぺいが全体の進行役も兼ねていて、広島弁の「人間失格」や名古屋弁の「雪国」が、その地方出身の俳優等によって朗読される。味わい深いとも言えるが、やや際物っぽい気もして聞き込むほどではなかった。
 ラストが秋田弁だったのは忘れていたが、今回は、その『八郎』に思わず聞き入ってしまった。
 やはり馴染みの深い語り口、知っている筋に安心できるのか…。
 いやそれ以上に、浅利香津代の語り口が見事であった。端々の言葉遣いに心が揺れた。

 改めて本文を読み直すと、齋藤のこんな解説がある。

 「方言の身体」の持つエネルギー

 様々な地方の方言のもつ「味」を「温泉」にたとえて、存分につかってほしい、とも書いている。
 齋藤、得意のフレーズ「身体のモードチェンジ」には、最適なのが方言だという。

 では、何のためにどんなふうにチェンジしていくか。
 津軽には津軽の風土があり、広島には広島、沖縄には沖縄の風土に根ざしたものがあるはずで、聞き込むことでその精神性を感じ取り力や技としよう、という意図だと思う。

 暮らしている所と違う場所の方言に浸ることによって、何か得られるものがあるのか。
 これは微妙なところではあるが、否定はできない。確かにある方言を使ってみることで、そういう雰囲気になることはあるし、そうした心持が強化される場合もあるだろう。
 「なんくるない」しかり、「どげんかせにゃならん」(笑)しかり…。

 それはさておき、今自分が浅利の方言を聞いて、少し揺さぶられたのは単なる懐かしさではない気がしている。
 自分がかつて慣れ親しんできたことばの強さを再認識したといっていいかもしれない。
 もうちょっと聴き直してみたい。

学校のジャーナルを目指して

2008年10月05日 | 雑記帳
 所属団体からの依頼があって、近隣の小学校のホームページを調べる必要があった。
 全部で二十校ほどであるが、あまり状況ははかばかしくない。つまり更新が滞っている学校が多いということだ。

 学校にパソコンが配備されネットにつながるようになってずいぶんと時間が経つが、高速化や操作の簡便化が図られてきたわりには私の周辺では順調には進んでいないようだ。

 7,8年前にはなるが、当時の六年生と一緒に総合の時間にホームページ作りに取り組んだことがあった。レイアウトやリンクなどそれからどの程度進んでいるかという点で、各校のページを見てもほんのわずかではないだろうか。確かにブログ活用をしている学校も半数ほどあったが、これも定期的な更新はほんのわずかである。

 理由は様々に考えられる。勤務している市では昨年まで情報教育支援の非常勤職員がいて、年に数週間ではあるがその面をサポートしてくれたが、今年は打ち切られた。よほど堪能な職員がいれば継続的なことができるかもしれないが、多くの時間を割くのは現状では難しいだろう。

 しかし、なんといっても一番の理由は、必要性や有効性の問題ではないだろうか。
 保護者や地域向けの通信はやはり紙媒体が強いだろう、全ての家庭にネットがつながっているわけではない、また研究面をアップしてもどの程度の目に触れるのか疑問だ、等々、こういう意識が強いのではないか。私の中にだって当然ある。

 ただその考えを盾にして動かないでいることは、やはり怠慢だ。
 将来的に見て組織体としてのネット活用は、日常の仕事の一部として位置づけられなければならないだろう。

 と気張った考えで始めたわけではないが、先週本校のブログをようやく開設した。
 前年、情報教育支援の方とも話していたことだが、少し余裕が出てきた時期でもあるので「日誌」的に写真とコメントをアップしていこうと思う。

 先日読んだ新書に「ジャーナル」は日誌の意味で、正しいことを伸ばし、悪いことを改めるために書くものだという記述があった。正直、悪いことはあまり宣伝できないだろうが、いいことや頑張っていることなら載せられるし、載せたいと思う。
 学校のいいことを知らせ、増やしていくという意味のジャーナルを続けていきたい。

九十三歳の語りに触れて

2008年10月03日 | 読書
 『戦争絶滅へ、人間復活へ』(むのたけじ 岩波新書)を読む。

 インタビュー形式で語られているこの著書は、まとめ方も良かったのか今まで読んだものより読みやすく感じた。
 しかしその内容には、今まで自分が知りえていない戦争の現実も確かにある。
 特に従軍慰安婦を巡る場面など実に生々しく語られている。戦争という極限場面でみせる人間の性、それらは想像を絶する。果てしなく深く黒く…ただ、そういう歴史を直視する必要があることを、この今まであまり語られなかっただろう現実を読んで、思い知らされた。

 それに比して軽いとは言わないが、興味深いエピソードもいくつか散りばめられている。聞き手がいるよさなのかもしれない。

 意外なことに、五代目小さんのことが書かれてある。
 小さんは、2.26の反乱軍の中にいたという。むのは、小さんの落語について語っている。

 あざむかれた者の哀愁

 これは実に面白い。つい最近も車でCDを聴いたばかりで、そんな感覚で捉えている人がいることにも驚くし、大雑把に知っている小さんの人生ももう一度読み直したいと思うほどだ。

 最終章が「絶望のなかに希望がある」と題されて、地元秋田の中学生や高校生との出会いや仙台の小学生のことが書かれてある。
 むのがその出会いをある面で明るくとらえていることに、少し驚いた。物怖じせずダイレクトに訊いてくる、仲間を大切に思う…そうした場面に、新しい息吹を感じていると書く。

「憲法九条っ子」のような存在
 
 現実にそうした子を間近に見ている私たちは、問題のみに目が行きがちだか、むのが捉える大きな流れの中で垣間見える光だとすれば、もうちょっと私たちもそこに目を凝らしてもよくないか、そんな気にさせられる。
 そういう姿勢で向かうべきだと感じる。