すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

関心がないという関心

2009年12月17日 | 読書
 ある著名な女流作家が、新刊小説についてのインタビューにこんなふうに答えたと自ら書いている。

 「わたしが、女子アナを書きたい、と思ったわけじゃないんですよ。世の中には様々な職業がありますが、関心がない職業ベスト5にはいるぐらいだったんじゃないですかね、女子アナという職業は。(以下略)」
 
 初め読んだ時はなんとも思わなかった文章だが、何気なく読み返した時にふと違和感があった。

 関心がない職業ベスト5 

 これって何?むろん実際にこういうランクはないだろうから比喩的というか、強調するための技巧的表現であることはわかるが、そうであってもしっくりこない。

 「関心がない」「職業」の「ベスト5」が作れるものだろうか、ということである。他で示してみよう。例えば、これはどうだ。

 「関心がない野球選手ベスト5」
 「関心がない食べ物ベスト5」

 様々なものを例示してもわかるが、まず内容つまり「職業」を全部知っているかという問題がある。
 次に、では限定して「知っている一般的な職業」(これもどのくらいあることやら)と置き換えたとしても、なぜそれを選択するのか。
 良くも悪くも選択すること自体が、関心があるということではないのか。関心がなければ普通は無視だ。

 だからもし「嫌いな職業ベスト5」であるなら、「見たくない野球選手ベスト5」や「苦手な食べ物ベスト5」があってもおかしくないように、限定された数の中では選べるだろう。

 不特定多数の中にある個別のものに対して「関心がない」というのは、まさに「関心がある」そのものとは言えないだろうか。
 と、なんだか理屈っぽいが、なかなかいい結論だ。

新しさを掘り進む

2009年12月16日 | 読書
 『優しい子よ』(大崎善生著 ポプラ文庫)

 『傘の自由化は可能か』というエッセイ集の中に書かれた箇所を読んだだけでも心動かされたある少年の話が、私小説という形で収められたのがこの本である。
 さらに、著者と交流のあった名プロデューサーの病、死、そしてその後の取材を巡る出来事と心象が、もう一つの内容といっていい。

 この二つに、いや二人に共通したものがあるとすれば、それは高貴な魂の存在とでも言うべきか。ひたすらに受け入れ、与え続ける姿に周囲の人間は心打たれる。ある時は悩み、叫び、迷惑をかける存在であっても、どこまでもその魂は純真であり、周囲の者をひきつける強い磁場があるように思えてくる。

 大崎はそこに惹かれる感情を隠そうともせず、かといって過剰に表現するでもなく、淡々と自分と周囲を見つめながら筆を進めているが、それらの対象が抱えている思いの強さゆえに、心揺さぶられる場面が多い。

 最後に収められた「誕生」は、妻の妊娠、出産を巡る内容であるが、前述の二つと切り離せない面を感ずる。出会いと別れを繰り返してできた観念のようなものをまるで、誕生してくる者に刷り込んでいくかのような表現だ(もちろんそんな意識はないだろうが)。

 感情や感性や、概念や観念を、文字にあらわして見えるようにする、そのための空間が必要で、それを広げていくことを、「今の自分にとって、小説を書くということ」と書く大崎が、「文庫版のための後書き」でこんなことを記している。

 新しい言葉、新しい文体、新しいレトリック。それを手にするには新しい経験と新しい感動を繰り返していくしかない。新しい物や街を見ることで新しい形容が生まれる。 

 表面的な新しさ、そこを掘り進んでいけば何か真の新しいものと出合えるのではないかと読む。そのために長い時間をかけて磨いておくのは魂という鍬でしかない…大崎を読んでいるとそんなイメージが浮かぶ。

合理的に思考する子も学びたがっている

2009年12月15日 | 雑記帳
 京野真樹先生を迎えたセミナーの「参加者の学び」をまとめるために読んでいたら,一つ面白い?感想があった。

 講話を聴きながら自学級での授業を振り返って,音読の仕方などを訊ねた場合「じゃあ,どう読めばいいのか(先生が)言ってください」と言う子が多いという。
 あの子かな,この子も言いそうだなという想像をしながら,教師の指導がどうなのかという問題でなく,そういう子どもの出現!がまさに,足元にあるということを思い知らされる。

 先月読んだ内田樹氏のブログをふと思い出した。
 きっと「じゃあ,どう読めばいいのか(先生が)言ってください」と臆面もなく言う子は「合理的に思考する子」なのではないか。
 ここでは「合理的」という言葉のレベルが問われるが,それはいわば経済合理性。お金に早くたどりつくための思考であろう。

 音読の工夫をなぜわざわざ自分がやらなくてはいけないのか,それをやることに何の意味があるのか,正解があるなら早く教えて,ぱっと練習してみればいいだろう…
 こうした傾向が「学びの劣化」をうむことは間違いない。
 それは何のための学びなのかという思いを巡らす体験がなかったこと,現実場面では学ぶ楽しさや達成感,克服感,友達との一体感などを身につけることが薄かったということだとは思うが,皆無ではなかったはずと信じたい。

 今、改めて内田氏のブログを読み直すと,とても大事なことが書いてある。

 「学ぶ力」は成熟への意欲と相関する。
 成熟への意欲は、子どもが多様な集団において、そのつど適切な役割を演じることの必要性と相関する。
 
 「多様な集団」「適切な役割」そして「必要性」。
 これらが先細りしている社会現状であることに違いない。
 しかしせめて,学校や教室という場では,「必要性」を感じさせるためのあれこれの手を尽くさなければならない。

 「子どもはみんな学びたがっている」というのはわが師の教えでもある。

傘の自由化が語りかけること

2009年12月14日 | 読書
 愛読誌であったマガジンハウスの『ダカーポ』が廃刊?になってからどのくらい経つのだろう。
 真っ先に読むのが、大崎善生の日記風エッセイだった。そのユルイ日常の描き方がたまらなく自分にフィットしたなあと思い出せる。

 その当時書かれたと思われるエッセイが集められたのが、この本だった。

 『傘の自由化は可能か』(大崎善生著 角川文庫)

 様々な雑誌等に書かれたものが集められているようで題材が重なっているものもあるが、それなりに楽しく読めた。

 題名となっている「傘の自由化は可能か」は、大崎が学生時代にほとんどひきこもりのような生活をしていた時代に、寝床の中で繰り返し考えていたことと言う。
 自堕落で飲んだくれの日常のように見えながら、実はさなぎのような状態でそんなことを考えられることが、作家の作家たる所以かなあと思う。

 同世代である自分も似たような暮らしをしていて、何か考えていたことはあるのか思い出そうとしても、言葉として浮かんでこない。
 しいて「傘つながり」で挙げれば、陽水の「けれども問題は今日の雨 傘がない」だろうか。
 それも情けないことである。

 さて、この「傘の自由化は可能か」は大崎の初めての小説である『パイロットフィッシュ』の中に登場人物の会話として描かれている。
 傘の私有化を禁止し、様々な場所に傘を置いて自由に使いあうという発想なのだが、それは果たして可能かということで会話がかわされる場面だ。
 面白い設定である。傘の共有化によって便利なことは結構たくさんある。そういった社会実験?が行われても不思議ではない。

 そしてこのエッセイでは、ある市で行われた経緯が書かれてあり…。

 その結末はそれとして『パイロットフィッシュ』を書棚から出しめくってみたら、会話の中で大崎はある女性にこんなふうに語らせている。

 本当にそれがいいと思うんだったら、まず自分で一本でも自由化してみることよ。きっとそういう具体的なことが大切なのよ。 

 この、とてもまともな言葉が、とても大事に感じられる。

 言い訳として、なぜできないか考えるのではなく、次の手を考える下地を固めるという発想が必要だ。

今頃になってテーマ解題

2009年12月10日 | 雑記帳
 明日にセミナーを控えている今頃になって、なぜかまた言葉を吟味したくなる。これは性分というものだろうか。

 「音読と授業づくり」…これをテーマとして掲げた。
 全体像としては5月に自分が提案した「音読を活かす授業づくり」と「国語科での音読」の二つを中心に考えている。
 セミナーでは後者を取り上げて外部講師を招いた授業と講話等を行う計画で、明日がその2回目ということになる。

 国語科での音読の位置づけを、自分なりに三つ挙げていた。
 ・音読の仕方を教える場
 ・音読を訓練する場
 ・音読を活かした学びを深めていく場

 考えてみたいのはやはり三つ目と言える。これは具体的にどんな姿を指しているのか。
 指導要領の解説書によると、音読には二つの働きがある。「自分が理解しているかどうか確かめたり深めたりする働き」と「他の児童が理解するのを助ける働き」である。「また」として「一人一人の理解や感想などを音読に反映させることもある」と書かれている。

 注目すべきは最後である。
 二つの働きを関わらせて学びを深める活動として取り上げるとすれば、それに類したこととなろう。

 読字が終了しているのであれば、読みとったことを音読に反映させることはどの段階でも可能と言える。それが鮮明なものになるかどうかがポイントか。

 ・音読によって解釈の対立が生まれる展開
 ・解釈をもとにした多様な音読のあり方

 このあたりが姿となって表れることが予測できる。むろんこれらは結構なレベルが要求されるし、そのための講師招聘である。そこへの道筋がどうつけられるか、それが参観の一つの視点になるだろう。

 もう一度一歩下がって、なぜ音読かを自分に問いかけ、その思いを記してみよう。

 文字は音声化されることによって、自らの身体により深く取りこむことができる。
 そういう場を豊富に持つことが初等教育にとっては必須である。
 いわば、声をつかって知識・理解を身体化すること。そういう授業づくりが求められている。

『唯脳論』も読め…

2009年12月09日 | 読書
 発刊から20年、もはや古典と言っていい?名著である。理解力の乏しさ、根気の無さから逃げ出していたが、せめてこのぐらいは読み通したいと思った。今年の最後の課題としよう。

 「はじめに」に目を通す。やはり難しい。

 現代とは、要するに脳の時代である。
 
 この比喩的表現が結論と言えるのだろうが、それがどう噛み砕かれているのか、すっきり入ってこない。

 現代人は、いわば脳の中に住む。

 これは、「脳の産物の中に住む」ということだ。つまり産物としての建物、街という直接的なハードの面、文化や制度、言語といったソフトの面の両面を指している。これはわかる。ではこれはどうだ。

 脳の中に閉じ込められたと言っていい。

 そう、誰に閉じ込められたか。それは自分か、他人か。ここは読み進めなければならない。
 「脳の中に住む」ということは「御伽噺」の世界に住むことだとあるが、御伽噺は現実と相反するという意味だ。では、現実とは何なのか、それが大きな問題となる。
 大昔、それは「自然」だった。しかし今は多くの人工物、情報などが現実である。つまり「脳の産物」である。脳の中にある御伽噺はもはや現実そのものなのだ。脳の中も外も現実だらけ。作り出しているのはと問えば…。
 
 自己の生活を左右できない自己の脳、あるいは自己の生活を左右する他人の脳
 
 かつて脳に住むことは、現実たる自然からの解放であったが、今は現実と化した自己と他人の脳によって、閉じ込められているのだ。
 なぜこれが問題なのか、といえば、ヒトは動物としてそもそも自然だったから、と言えようか。

 そこからわれわれが解放されるか否か、それは私の知ったことではない。
 
 えっ、最初から突き放しか。
 それでは何のためにこの本を書いた。これで終わりでもいいだろう。いかにもへそ曲がりだ。偏屈だ。自然でない。
 だから?「はじめに」がそんなふうに書かれるとは、なんて素敵なことだろう。
 挑発的なので読んでやる!とわずか2ページで疲れてはいるのだけれど。

名人が語る食と言葉

2009年12月08日 | 雑記帳
 あの「分とく山」の料理長野崎洋光氏の講演を聴いた。しかも隣接する中学校である。詳しくは、学校ブログで。

 グルメ気どり親父しかもミーハーを自称する私としては、実に楽しみだった。
 控室でも間近に座らせていただき、雑談できた。
 講演そのものは正直しゃべりのプロという感じはなくて、細切れ的な内容になってしまってやや期待外れだった。
 しかし、その中にあった「食と言葉」に関した件が実に興味深かった。

 グルメ雑誌や漫画もずいぶん読んでいるので、食に関する日本の感覚の素晴らしさはなんとなくわかっているのだが、改めてこんな数値を出されると、はあっと思う。
 なめらかとかしゃきしゃきとかいう類の味覚・食感を表す語彙の数である。

 「英語では70あるそうです。では日本語ではいくつあるかというと…455です。」
 
 四季を持つ国で暮らす日本人の繊細さ、などという表現は陳腐な気がしていたが、語彙数で語られると実感がある。
 そして地方ごとに食文化の違いも際立っている。これはまさしくこの国の地形、気象条件、それに伴う産業の発達、そして交通や流通の歴史…様々な要素が絡まっているんだろうなと思わされる。

 例えば、今最盛期を迎えつつある「ハタハタ」。この魚に関しては秋田そのものを表すといっても過言ではないほどの文化があると思うのだが、それに充てられた漢字も、「鰰」「鱩」と実に興味深い。

 おっとっと、止まらなくなりそうなので、止めて…野崎さんである。こんなことも言った。

 「『いぶりがっこ』の『がっこ』はね、漢字で書くと「雅香」ですよ。これはね、昔の京の人たちの遊びから来ているんだね、たくわんづけを…」
 
 当て字だという説もあるが、名人が言うと何だか本当に思えてきて…。

カレー、おごれよの衝撃

2009年12月07日 | 読書
 同年代人として注目している宮沢章夫の演劇をいつかは観てみたいという願いがあるのだが、なかなか実現しない。まあこういう人は他にもたくさんいるのだけれど…。
 それはともかく
 「『資本論』も読む」(宮沢章夫著 幻冬舎文庫)を読んだ。

 まず最初に、高校生の頃に「資本論を読みたい」と友人らと共に挑戦したことに驚いてしまった。そしてそれ以上に友人の一人が卒業して十年経ってから、「『資本論』、とうとう読み終えたよ」と言ったこと。何より、その次の言葉が衝撃的だった。これはドラマだ。

 「カレー、おごれよ」
 
 宮沢も「驚いた」と書いているが、そういう約束をする高校時代を過ごした者たちの歩む道の頑固さは生半可ではないことを思い知ったような気がした。
 こりゃかなわん、である。

 宮沢は「資本論」の解説を書こうとしたのではなく、「資本論」を「味わう」ために書いたと繰り返している。雑誌連載であり確かにらエッセイ風ではあるが、難解な本を味わうための基礎を持ち合わせているし、それを総動員しての著作なんだなと感じる。

 「資本論」などに少しも興味を持ってこなかった自分だったしもちろん理解などできなかったが、多少なりとも「労働」「商品」「貨幣」「剰余価値」などということにも考えを巡らすことができた貴重な読書だった。

 今さらではあるが、日常の行為の意味づけができることは新鮮ではある。
 それにしても、この書名の「も」は凄いなあ。
 これだけはという著書をできるだけ「遅く読む」ことは、案外いい方法なのかもしれない。何なら味わえるのだろうか。

 とてもとても『資本論』に手は出せないが、せめて『唯脳論』ぐらいならば…と思う。しかしいつの頃からか読みかけのまま書棚に収まっている。

三輪車、走り続ける

2009年12月05日 | 雑記帳
 全校PTAの日であり多少その準備もあったのだが、午前中に校長室の書棚から学校文集を取り出したらあまりに興味深くて、やめられなくなった。

 なんといっても本校の文集は、今年度で第60号を迎える。
 年に一回(創刊当時は少し違っているが)発行であるが、ここまで号数を重ねている文集は、県内では、いや全国的にも珍しいだろうと思う。
 北方教育、生活綴り方運動の流れが底にあり、かつその継続を支えてきた教育文化があればこそだったのではないか。

 第1号の表紙には1952.3.20という日付が表紙にふられてある。
 西暦を使っていることにもその当時の空気に触れる思いがするし、巻頭言、あとがきに書かれた熱い文章を読んだとき、照明もあまり明るくない昔の教室の中で遅くまでガリ版に書き込んでいる音が聞こえてくるようだ。

 第1号はコピー版できれいな状態であるが、同じ年6月に出された第2号はかなりくたびれてきて、ぶさぶさの状態だった。綴じ込みを丁寧に外しながら、スキャンしてデータ保存ができたことは何かとてもいいことをしたような気分になった。

 さて創刊号の「編輯後記」(この輯の字は初めて見た)に「I生」氏は、発刊の理由を端的にこう記した。

 この綴方とゆうものが、どんなに学習にも生活にも、いいものであり、大切なものであるかの理由にもとづく

 綴り方運動の歴史を語るほどの知識は持ち合わせていないが、この思いの根っこにあるものは自分でもなんとなく感じ、大事にしてきたように思う。

 へき地の初任校でひたすら日記を書かせ続けて三年、その次に赴任したのがこの学校だった。ここで私はどんな文を子どもたちに書かせたのだろう。それもこの文集の三十何号かに載っているのである。冊子の束にじっくりと付き合うことにしたい。従って後日に。

 学校文集の名は「三輪車」。
 長い道のりを走り続けている。

「いのち」は名付けを嫌う

2009年12月04日 | 読書
 母たる万智ちゃんの姿が見える『プーさんの鼻』(俵万智著 文春文庫)に、次の歌がある。

 とりかえしのつかないことの第一歩 名付ければその名になるおまえ
 
 解説でこの歌を取り上げた穂村弘もまた、こう書く。

 とりかえしのつかない「名付け」によって、この世界に新たな時間が流れだして
 
 名付けの素晴らしさは畏れとともにある。
 そういう感覚はその対象となる者・物といかに深くつきあったか、見つめたか、そこに尽きるといってよくないか。
 どれほどふさわしい名であっても、全てを表せるわけではないことをわかりきるほどわかりきっているだけに、名付けは一つの諦めか、確かに見切らなければ何事も始まりはしない。

 ただ時々は、悩み、ためらった時間もあったことを思い出してみよう。

 糸井重里が「ともだちがやって来た。」(ほぼ日ブックス)に書いた一節に、ああと、そんな時間を思い出してみた。
 出生届が受け付けられるまでのほんのわずかな日々のことである。

 そういう「ただのいのち」みたいにいる時間って、
 おとなたちがいくら憧れても手に入れられないものだ。
 なんか、その時間って、星の光りみたいだ。

 「いのち」とは本質的に名付けを嫌うものかもしれない。