10日の山中伸之先生の講座をふりかえって,印象に残る二つの「力」がある。
一つはその著書の中でも取り上げられていた。
予見聴力
山中先生が独自に名付けられた,何が語られるかを待ち構えて,観点などを事前に持って聴く力のことである。
これを講座の中で業者テストの「聞くテスト」を例に語られた。
講座のときに質問してみたかったことがあった。
この予見聴力は,よくある例として「帰りの会における明日の連絡(連絡帳にメモさせる)」といった場合のことも含まれると思う。では,他にどんな場合があるのだろうか,ということである。
著書の中で書かれてあるのは,取り立てて指導として「事件や出来事,ニュースの聴き方」について,いわゆる5W1H+結果をポイントとして挙げ,メモをとらせていく例が書かれている。また「説明・論説の聴き方」「物語・体験談の聴き方」も示されている。
メモの取り方と連動させて,時間設定しながら扱い,日常指導と絡めるということだろう。
その「絡め」を具体的に想像してみると,児童の輪番スピーチの場,集会での先生の話程度しか思い浮かばない。
もちろん教科学習の場でも十分意識的にできるはずであり,これはきっと教師や子供の「話し方」に大きく関わり合ってくるだろう。
いずれにしても予見聴力とは,姿勢,頷きなどの外的な構えに対して,内的構えという見方もできる。
著書では「心の構え」というように意欲・関心的な面が強調されるが,何を聴きとるべきかという準備を習慣づけするという意味では,予見聴力という考え方は非常に重要だと思う。
感受力
講座でこう示された力がある。
一般的には「感受性」という言い方が流布しているが,そこに違いがあることは確かだろう。
著書において「話の内容や価値を感受する資質や能力」ということを「感受力」とキーワード化したと思われる。
感性…感受性…感受力…こう並べてみると,ある程度限定された範囲で,鍛えられるべき要素が強いというイメージを持つ。
では,その感受力を鍛えるためには,何が必要か。
価値ある話
これは間違いないだろう。
では,その「価値」を決めるのは…当然ながら,聴き手なのである。つまり,価値があったかどうかは表現させてみなければわからない。
どんなに深く心に沁み入る話であったとしても,何かしらの表現によってのみ,感受力は認められる。
多くの場合,それは言語ということになる。
そうすれば,「構え」や「聴く技術」を鍛えながら,聴いて受け取ったことを表現した言葉(心のあり方)を誉めていくという地道な方法しか,手はないように思うのである。
それは,子どもをいかに認めるか,ということと同じである。
こう考えていくと,二つの力は,実に細かな場面の中で積み重ねられている。
一つはその著書の中でも取り上げられていた。
予見聴力
山中先生が独自に名付けられた,何が語られるかを待ち構えて,観点などを事前に持って聴く力のことである。
これを講座の中で業者テストの「聞くテスト」を例に語られた。
講座のときに質問してみたかったことがあった。
この予見聴力は,よくある例として「帰りの会における明日の連絡(連絡帳にメモさせる)」といった場合のことも含まれると思う。では,他にどんな場合があるのだろうか,ということである。
著書の中で書かれてあるのは,取り立てて指導として「事件や出来事,ニュースの聴き方」について,いわゆる5W1H+結果をポイントとして挙げ,メモをとらせていく例が書かれている。また「説明・論説の聴き方」「物語・体験談の聴き方」も示されている。
メモの取り方と連動させて,時間設定しながら扱い,日常指導と絡めるということだろう。
その「絡め」を具体的に想像してみると,児童の輪番スピーチの場,集会での先生の話程度しか思い浮かばない。
もちろん教科学習の場でも十分意識的にできるはずであり,これはきっと教師や子供の「話し方」に大きく関わり合ってくるだろう。
いずれにしても予見聴力とは,姿勢,頷きなどの外的な構えに対して,内的構えという見方もできる。
著書では「心の構え」というように意欲・関心的な面が強調されるが,何を聴きとるべきかという準備を習慣づけするという意味では,予見聴力という考え方は非常に重要だと思う。
感受力
講座でこう示された力がある。
一般的には「感受性」という言い方が流布しているが,そこに違いがあることは確かだろう。
著書において「話の内容や価値を感受する資質や能力」ということを「感受力」とキーワード化したと思われる。
感性…感受性…感受力…こう並べてみると,ある程度限定された範囲で,鍛えられるべき要素が強いというイメージを持つ。
では,その感受力を鍛えるためには,何が必要か。
価値ある話
これは間違いないだろう。
では,その「価値」を決めるのは…当然ながら,聴き手なのである。つまり,価値があったかどうかは表現させてみなければわからない。
どんなに深く心に沁み入る話であったとしても,何かしらの表現によってのみ,感受力は認められる。
多くの場合,それは言語ということになる。
そうすれば,「構え」や「聴く技術」を鍛えながら,聴いて受け取ったことを表現した言葉(心のあり方)を誉めていくという地道な方法しか,手はないように思うのである。
それは,子どもをいかに認めるか,ということと同じである。
こう考えていくと,二つの力は,実に細かな場面の中で積み重ねられている。