すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

心配に身を委ねる楽しさ

2012年12月17日 | 読書
 家族を迎えがてら、久しぶりに仙台へ足を運ぶことになった。
 その朝、たまたまでもあるが、前から読みたかった伊坂幸太郎のエッセイ集を朝風呂に持ち込んで読了した。

 『仙台ぐらし』(伊坂幸太郎 荒蝦夷)

 仙台の出版社が出している雑誌に連載された文章と、「ブックモビール」という短編小説が一つ入っていた。
 時期は2005年から2012年まで、つまり著者が売れっ子作家として注目され、その小説が映画化などされ、そして震災を体験し…という流れである。

 あっさり読める内容だが、二つのことが今さらながらに納得できた。
 ひとつめはこのこと。

 「心配症」とは、作家の一つの資質である

 ここに載せられたエッセイの中にも、著者の心配症ぶりが面白おかしく?記されているが、結局そういう妄想を拡大、深化させ表現していることが、小説の執筆に結びついているように強く感じられた。

 私もかなり心配症であることを自覚しているが、その妄想で眠られなくなるぐらいで…結局、だからそれを消そう、降りきろうとすることが強くなって、何も生産的なことに結びついたりしないのである。

 伊坂は、その心配症に身を委ねているように見える。
 それが「楽しそう」とはあえて言わないが、そこから生じる想像の扉をどんどん開けて夢中になっているような雰囲気を感じるのである。

 それを文字に置き換えていくことを厭いさえしなければ、創作の種は芽を伸ばし、どんどん葉を広げていくのではないか。もちろんその素地として文筆力や構成力や思想や嗜好が必要であることは言うまでもないが。

 二つめは、伊坂が本質的に志向していることだ。

 震災後、多くの文筆家や他の文化人と称する面々が、自分の無力さを嘆き、仕事の見つめ直しのような文章を書いていた。
 その時に、どんな思いが心の芯になっているか気づいた人も多いのではないか。

 伊坂もそうだろう。彼はこう書いた。

 僕は、楽しい話を書きたい。

 このシンプルな一言は「いいなあ」と素直に思う。
 と、先週読んだ新刊の文庫本も結局はそうだったと振り返ることができる。
 なんせ題名がいい。

 『SOSの猿』

 感想は…んんっ、楽しいけれど難しい。

極意をめくって見える「不」

2012年12月15日 | 読書
 『教師力アップ 成功の極意』(堀裕嗣 明治図書)

 これは「スペシャリスト直伝!」というシリーズで、この後も名だたる実践家がラインナップされるらしい。
 堀さんがシリーズ本に関してブログで記したことを読み、思わず苦笑してしまった。
 こう書いてある。

 きっと、このシリーズ本をおもしろがって読むのは、力量形成や上達論に対する意識を高くもっている中堅・ベテラン教師だろうとも思う。ああ、オレもあの頃、このような取り組みをすれば良かったという、いくばくかの後悔の念とともに。


「いくばくか」どころではない後悔の念がある。
 しかしこの著がいうところの<終わった人たち>に片足を入れている身としては、笑って誤魔化すしかないか。

 さて本の内容だが、半分ぐらいはブログで既に読んでいるのではないかと思ったけれど、さすがだなと感じながらまたしみじみと読み入った。
 ツイッターで語られた「極意」はいわば、並べられたステッカーであり、それをめくればどんな世界(著者の姿)がのぞけるのか楽しむような気持ちで読めた。
 ただしすいすいとは言えない箇所も多く、立ち止まりも多く、結果的には時間のかかった読了である。

 最初のキーワードともいっていい「上機嫌」は、最近尊敬する多くの方々が口にする。
 言い始めは齋藤孝氏だったのだろうか。「上機嫌の作法」という著書は2005年刊なので、それ以前もあったのではないか。

 私もおそらく90年代初め頃だったと記憶しているが,よく思っていた一つに「教師の資質の一つには絶対『明るさ』が入る」ということがある。
 当時ひたすら「技術論」を追いかけていた自分にとって、それ以外に確信めいたことを手に入れたと感じたのは少ないのでよく覚えている。

 ただ「明るさ」は「無駄に明るい」という言葉もあるように、単独のイメージもあるし、具体的で対人的な「上機嫌」は、まさしくぴったりだといえる。


 40項目の「極意」があるので、キーワードは40となるのだと思うが、私なりのひっかかりでまとめてみれば、こうなる。

 「不意に」をつくるために、「不在」を認め、求め、「不断に」積み上げる

 言葉足らずになることを承知で強引に文章化してみた。

「不意に」は実践上に大きな意味を持つ。自分にはなかったキーワードである。
 ただ、名だたる実践者の授業においても、生徒指導上の関わりの中でも、子どもの成長の過程においても、不意に言葉があふれだすという現象を見てきたことは確かであり、それが支えになっていることは大きいだろう。
 今はまだぼんやりだが、それをつくりだすための営みは「組む」「注ぐ」そして「待つ」、そのあたりに集約されるかもしれない(とまた勝手に括ろうとする悪い癖が出た)。

「不在」…これもこうした言葉で自分が今まで語ったことはなかった。
 年数を経て次第に明らかになる不在を感じるようではもはや手遅れであり、早い段階で明確にすべきことだ。
 自分を、周囲を、世の中を、冷静に分析的に見るという訓練も必要な気がする。
 著者が記している履歴の中で繰り返しでてくることのように思う。

「不断に」は、本文中に出てくる言葉ではないが、誰しも納得できるだろう。
 この本が意図的な積み重ねの成果であることは間違いない。
 つぶやいた言葉の裏や奥には、ここに文章化された姿や思いがあり、またそれを支えている二十数年のキャリアが想像できる。三章以降、特に四、五章は私にはそう読みとれた。


 おしまいの方で文体について触れている箇所がある。
 このことについて意識的で、それを内容に取り入れた教育書は少ないのではないか。

 二冊ぐらいの記憶しかない。
 一冊は不確かなので書名を出せないが、あと一冊ははっきりと覚えている。

 初任の年に買い求めた『齋藤喜博を追って』(向山洋一 昌平社)である。

遠くに目をやる金曜日

2012年12月14日 | 雑記帳
 今日は除雪車の音で目を覚まさなくてもいいなあ、と思っていても、年齢相応?に4時半になるともう寝付けないということがわかる。

 そういえば、今週は「ふたご座流星群」が見られるとラジオでも言っていた。チャンスかと思い、窓越しに外を見ると曇り空ながら星も見えるではないか。

 四日ぶりに積雪のない朝、そんなに寒くはないがやはり路面は凍結。長靴で歩く度に、ガリッ、ミシッといった音が響くほどだ。

 撮れないとは知りつつ一応カメラを持ち、確か東北東の空とか言っていたなあと見上げてみると、あっ、あっあの線のようなものは…さっそくゲットかあ、などと思ってはみたが、これが実は電線が何かに反射しただけという、お笑い草の結末だった。

 しかし、その後の十分程度で四度ほどの流星を目にする。
 「群」とは言えないが、久々に遠くに目をやる時間を持てたことで気分がいい。


 さて、7時。
 路面は凍結だが、ポイントになる箇所は融雪剤がまかれているから濡れているだけで今朝の通勤は楽だった。
 今週続けて聴いているFM番組にじっくり耳を傾けられる気もする。

 http://www.tfm.co.jp/ch/index.php?blogid=39&archive=2012-12-7

 今回ほど決めあぐねる選挙はないと感じていたので、この番組の特集は少し興味を持った。
 「消費税」「TPP」「原発」「東京オリンピック」「安全保障」が五日間のテーマである。「オリンピック」開催のレベルは同程度でもない気がするが、取り上げたのはスポーツ系のキャスターということもあるのだろうか。

 それぞれの回で解説をしている識者の立ち位置を知らないままで語るのは、誘導されただけに見えるかもしれない。しかし個人的にはなかなか的をついているように聴いた。

 漠然と感じたことは、今争点となっている「消費税アップ」「TPP交渉参加」等々を選択しても選択しなくとも、要はその後次の手をどうするか、何のためにそれをするのか明確にできるかどうか、にかかっているような気がする。
 公約と掲げられていても、選挙後すぐに取り消される(骨抜きにされてしまう)ことが当然のような予測さえ出ている。
 
 そこで見抜けなければならないのは何か。
 人か、組織か、はたまた歴史の教訓か。

 自分は今まで何を選んできたのだろうか。
 選ばれた責任と同程度に、選んだ責任を考えたことはなかったかもしれない。
 当選落選は重いことに違いない。
 しかし一個人として、選んだことでストップしないことが何より肝心だ。

 自分以外の「遠くに目をやる」、そういう眼差しの強い人に一票を投じ、責任を果たしたい。

漢字の国,金の国

2012年12月13日 | 雑記帳
 昨日の昼、ニュースで「今年の漢字」が発表されたと思ったら、まもなく職場に「漢研」よりFAXが送られてきた。

 2012年「今年の漢字」
 応募数第1位は「金」


 応募数の3.54パーセントでの1位がどれほどの支持なのかちょっとわからないし、ややマンネリ気味のような気もするが、改めてこの国の「漢字好き」?には納得させられる。

 かなり前から「あなたの好きな漢字一字は?」とか「今年の貴方の一字は?」などはあったが、教科指導のなかでも文章の初発のイメージや読み取りのまとめ方の工夫としても使われるようになっている。

 やはり漢字という言語の持つ意味の多様さは、汎用性が高いものだなあと思う。
 そして、造語を支える大きな要素になっている。

 先日、ある会議で資料にこんな言葉を見つけた。

 「互尊意識」

 ああ「自尊」と対をなすという考えか、「ごそん」と読むのだろうとまではすぐわかったが、はたして辞典にある言葉なのか…。すぐに調べたが、手元の電子辞書(広辞苑、明鏡、他)には載っていなかった。

 それでも十分に意味が通ずるところがえらい。
(後日調べたら、「互尊独尊」という四字熟語があることを見つけた。あまり一般的ではないが、これも意味はつかめる)


 今日、通知表の学習の項目点検をしていたら、六年算数にこんな項目があった。

 「身の回りにあるものの概形をとらえ、およその面積を求める」

 「概形」という言葉が気になったので、算数科の指導書をみたら確かにその言葉は載っていた。
 念のため、電子辞書で調べてみると、これはない。
 教育や研究に使われる特殊な用語なのだろうか(大辞林にはあるとのことだ)。

 では、概形を「おおよその形」と言い換えた方が親切かなと考えるが、どうも後の文章との言い回しがよくない。結局「概形」でもわかるだろうということになる。
 そう判断できるのは、やはり漢字の国の強みなんだなあと、改めて思う。


 それにしても「金」である。
 オリンピックや天文現象などがその理由として挙げられている。確かに「金」はイメージとしてこれほど輝かしいものはない字だが、字源としては「大漢和辞典」(学研)によると、「『今』(おさえたふた)+『土』+『砂金』(きんのつぶがちらばっている)」といった意味からできているらしい。

 輝かしいものが何かに押さえられているとしたら、閉塞感充満のこの国の現在にこれ以上ふさわしい字はない。
 そういえば、かの半島の国も、その字のつく人に押さえられている状態ではないか…などと変なことにも気づく。

「構造」と直面する覚悟

2012年12月12日 | 読書
 堀裕嗣さんの新刊本を読んでいたら、この本の引用があった。これは確かまだだったなと思い、取り寄せたみた。2007年の発刊である。

  『いじめの構造』(森口朗 新潮新書)

 森口氏の著書は同じ新書で2冊読んでいる。
 教員とは違う視点で語られる面白さがあったが、やや傍観者的かなあというイメージが残っていたのでその後は手にしていなかったのだと思う。

 しかしこの本は、実に的確で学ぶべきことが多い。
 教職についてからいわゆる「いじめ問題」に関しては、全国的に何度か波が押し寄せた。大きな波のきっかけになるのはいつも社会を騒がした「事件」である。
 その度に正直に言えば「ああ、またか」という思いを抱えつつ、報告モノが増えていくという現実を受け入れるしかなかった。それはある意味で、深刻な実態を抱えていない環境に寄りかかっていたことでもある。

 もちろん、自分の経験の中に「いじめ」に該当する問題がなかったわけではない。
 理念も技術も乏しい二十代の頃、女子児童に起こった問題を巡って夜間の電話が相次いだことを懐かしく思い出す。
 今の基準でいえば、あれは間違いなく「いじめ」だったろう。
 若さゆえの突っ走りで劇的に解決をみたと自分では思っているが、はたしてそれはそうだったのか…。
 この夏に該当する教え子たちと宴をもったが、その話題は出なかった。
 あれはどうだったか訊ねてみたい気持ちが湧いてくる。

 さて、この本である。

 「スクールカースト」という概念は、聞いたことはあった。
 しかしはっきりしないままで、読んで改めて納得できたことが大きい収穫だ。

 児童数が少なく単級学年の多い私の住む地区では、多少違った様相で形成されるかもしれない。
 固定化された人間関係の中で、様々に指摘される事項がある。関係づけるのは、子どもの性格や行動のみならず、地域における親や家庭そのものの位置づけまで影響があるだろうと予測する。
 そういった変形モデルまで視野に入れて、解決策を見い出す必要が出てくる。

 滋賀の一件以来、「いじめではないか」「いじめられている」と寄せられる情報が少し増えた気がする。その一つ一つを真摯に受け止めてはいるが、どうしても過剰反応なのではという思いを持ってしまう自分もまたいる。
 その辺りの教員心理の指摘も鋭い。

 寄せられる情報のレベルに差はあるが、それ自体は貴重な資料となる。その対処を通して解決や安心が得られるならば、教育活動として相応しく、有益になるという姿勢でいたい。

 総じてこの著で分析していることは的確だと評価できる。
 教員として対応、対処ができるための参考書として位置づけてもいいと感じた。

 『いじめの構造』という書名は、そのものを表わしているとともに、いじめに向かう学校の構造でもあり、社会の構造でもあり、日本人の意識の構造でもある。

 この本にもカッコで括られて登場する「毅然として」は、解決のためのキーワードに違いない。
 それを各自が持ち場で示せるかどうかにかかってくるが、いずれ「構造」の問題と直面するという覚悟のいることである。

とにかく,書いて放っておく

2012年12月11日 | 雑記帳
 今日は差し迫った仕事もなかったので、「書く」(といってもキーボードをうつ)に専念しようと計画立てた。

 朝、昨日ある程度仕上げていた「校内報№12」を完成させて、印刷して配布する。
 あとは、対外的な組織がらみの原稿の下書き3つに一挙に取り組もうと考える。

 まずは、国語の研究会誌の巻頭言。
 もう五年目となるのでネタ切れ状態であるが、研修関係ならまだまだ書けるなあという思いで、校内で取り組んだ国語実践研修会のことを書き始めた。A4一枚程度なので難なく書き終えたが、どうも冴えないなあと思いが残る。

 文書処理をしてから、書き換えることを決めた。
 参加した他の研究会のことも入れてまとめたいと思い、短くポンポンと文にしてみる。そして、何が言いたいかと考えながら、太字で浮かんでくる言葉を探す。

 「学びの姿勢」づくりは、最終的な関係性として学び合うことを要求する

 うん、なかなかではないか。
 しぱらく放っておいて、次に見直すまでちょっと熟成させたい。

 お昼前、校内を廻ってきてから、校長会誌の短い随想に取りかかる。
 これは、学習発表会の挨拶で使った「心を込める」ことを取り上げてみよう。
 ごくありきたりの言葉を検討してみることも実に面白い。

 「心を込める」ために必要なものは何か。

 そういうことも時々点検してみなければならない。

 午後になってから、職員からの頼まれ仕事でPPTの確認と修正を頼まれる。
 ちゃっちゃっとやっつけて(と言っても小一時間かかる)、地域文集の巻頭言に取り掛かる。

 これは、学校で冬休みの課題に日記を取り上げることから始めてみようと打ち始める。
 「人間関係を学ぶ」という大きなテーマから、文集なのでやはり「書くこと」の重要性を強調する流れとなった。
 ちょっと格好のいい言葉が浮かぶ。

 行きつ戻りつの時間の中で蓄えられていく思い

 これも熟成が必要か。

 とにかく、書く、書く。書いて放っておく。

 陽が暮れて、音も立てずに深々と雪が降り積む。

 とにかく、書いて放っておく。

出逢いたかった日本人

2012年12月10日 | 雑記帳
 年に一、二度見るぐらいでは、とてもとても歌舞伎ファンとは言えないが、ちょっとは興味ある分野だ。

 初めて見たのが教員になった年の研修旅行で、花道近くで市川海老蔵(今の団十郎)を見たことを今でも覚えている。
 その後あまり縁はなかったが、四十代になってからはお金とチャンスに恵まれれば出かけるようにしていた。筑波での研修の折にも半日日程で歌舞伎見学が組まれたことがあり、その恩恵に与った。今は昔の話である。

 そんなことで、名の知られている役者はほとんど観ているような気がするのだが、どうしてもめぐり逢えなかった人がいる。

 中村勘三郎である。

 いつかはと思いながら、結局叶わなかった。

 思い入れがあるのは、同い年ということが大きいかもしれない。
 桑田佳祐や郷ひろみ、江川卓から千代の富士、明石家さんまから役所広司まで、ついでにビル・ゲイツまで並ぶ超豪華なラインナップの同学齢著名人のなかに、「勘九郎」もいたことを知ったのはかなり以前だったと思う。

 息子たちの成長とともにテレビで時々描かれる「中村屋」の物語はいつも見ていた。その範疇での情報しかないが、やはり周囲の人間を惹きつける独特の光を放った人だと思う。

 亡くなってすぐに特集された番組のラストシーンは、「勘九郎」としての最後の舞台終了を、歌舞伎座のスタッフが奈落の通路で見送る場面だった。歌舞伎座でかつて一度もなかったことなのだという。

 そのエピソード一つで、勘三郎の凄さが伝わるような気がした。

 日曜の新聞文化欄に、勘三郎を悼む記事が載った。書いているのは、これもまた同い歳の野田秀樹である。舞台を通しての交流も深い。
 野田はこう書いた。

 あいつほど「日本人」という言葉が似合う男もいない。

 そして続けた言葉に、ぐっと迫るものがある。

 たぶんそれは、我々が歌舞伎に見る幻想でもある。

 古い「日本人」を描く架空の物語としての歌舞伎に、一番似合う男だったわけだ。
 そして野田は続けて、絵空事としての「日本人」を今なお現実に生きていた男として、勘三郎を悼んでいる。

 野田の独白のような句が載っている。

「富士紅葉名残の月に 勘三郎」

 大事なものや人は、早いうちに見ておかなければならない、そんな気にさせられた。

師走の桜を見ながら

2012年12月08日 | 雑記帳
 慌ただしく師走の一週間が過ぎた。

 一日,花巻の研修会へ出かけたとき,賢治の菩提寺が近くにあったので墓参をした。
 見事な枝垂桜のあるお寺さんだった。(1)

 休み明け,週の天気予報では雪マークが多かった。そろそろ冬の身支度をと思い,月曜日にベンチコートを買い込む。
 しかし,週初めはあまり雪はふらず,火曜日ぐっと冷え込み,校舎前の桜の枝が見事に凍みついていた。(2)

 水曜日,ぐずついた天気のなか,県の学習状況調査。

 木曜日はPTAの開かれる日。
 朝から荒れた天気で,雨が横殴りにふきつけた朝だった。

 ほとんどの子が傘をさす中,一人の子が傘を手に持ち歩いてくる。
「A君,傘をさしたらいいんじゃないの」
と声をかけると,班から離れてわざわざ立ち止まり,
「今日は突風注意報が出ているので,傘をさして飛ばされるといけないと思ったので」
という見事な返答。
「ほおう,そうですか。それではもうすぐだから急いで校舎に入るといいね」
と言い分を認めてみた。
 しかし,予想通りであるが,班に追いつこうともしない。
 まるで雨風を楽しむように,のろのろと歩みを進めていく彼の後姿を見送った。

 昼頃から雪に変わり,結構降り続いた一日だった。

 翌朝の金曜は結構な量となっている。
 朝,桜並木をみると,ちょうどいい塩梅に雪が積もっていた。(3)

 天気が曇りなのであまり映えないのか,登校する子供たちはあまり反応しない。
 しかし,校舎に近づいたあたりでは戯れている子が多かった。

 たった一人,雪の積もった並木を前に「おおう,きれいだ」と目を輝かせたのはB君。
 歩道をゆく班のメンバーと関わりなく,並木のまわりの積もっている雪に足を踏み入れ,回るように樹のまわりを小走りに動く。
 いまどき,犬でもこんなことはしそうもないが,その様子は妙に心和む。

 「桜,桜,桜,ただし師走」と題して,(1)から(3)の写真をこちらへアップしてみた。
 なかなかの風情である。
 

幸せの定義は焦点化される

2012年12月07日 | 読書
 ♪縦の糸はあなた、横の糸はわたし
  逢うべき糸に出逢えることを
  人は仕合わせと呼びます♪


 名曲『糸』(by中島みゆき)のエンディングである。
 この曲を知る以前から「幸せ」ということばが「仕合わせ」から来ている説があることは知っていた。

 新潮社のPR誌『波』今月号の連載「とかなんとか言語学」で、橋秀実がそのことについて角川古語大辞典で調べたことをもとにこう書いている。

 「しあわせ」はもともと「しあはす(仕合はす)」という動詞の名詞形なのである。


 その「しあはす」ついても、同じ辞典をもとに次のように書かれてある。

 うまく合うようにする。間に合わせる


 さらに、時代別国語大辞典も紐解いて、そもそもは着物と裏地を仮縫いし、裁ち合せることを表現していたらしく、当然そこには失敗もあり、次のような言い方もあったとしている。

 「しあはせ善し」「しあはせ悪し」


 そう考えると、「しあわせ」自体にハッピーもアンハッピーもないことがわかる。
 結局「幸福」という漢語登場により「固定化」、行為でなく「もの」化してしまったことは実に頷ける。

 連載の文章は、その後ヒルティ著の『幸福論』の曖昧さや混沌さを話題にして、それなりに面白い。またライバル同士?である勝間和代VS香山リカが言い合う場面の引用なども絶妙である。

 結局、少し脱力感のあるこんなまとめにたどりつく。

 やはり「しあわす」をわすれないことがしあわせなのではないか、と私は深く溜め息をついた。


 行動のなかに「しあわせ」がある。そしてそれはきっと「しあわす」行為の中に生まれる。

 そういえば『ちくま』の今月号にも、こんな文章が載っていた。
 藤井直敬という脳科学研究者の言だ。

 人の幸せがどこにあるかというのを考えると、やはり「関係性」の中にしかないですよね。

 これを信じれば、幸せの定義はぐっと焦点化される。

心配という文字では届かない

2012年12月06日 | 読書
 『韓国が漢字を復活できない理由』(豊田有恒 祥伝社新書)

 正直、韓国への興味が高いとはいえない。
 この本は、漢字への関心という選択で手にとってみた。
 韓国通、親韓派であるらしい著者は、多様な観点から表題についてアプローチしているが、単純に言い切れば「日本憎し」ということにまとめられることが、なんとも普通であり、同時に残念だ。

 ハングル至上主義者の主張として、「韓国語の表記に適している」「文字の機械化に適している」「漢字の混用は歴史の歯車を元に戻すようなものだ.」という点が出されている。
 しかしそれらを論証することはなかなか難しいし、使い手の気持ち一つでどうにも変わる要素を含んでいる。
 
 言葉を思考言語と内的にとらえたときに、漢字の持つ日本からの影響を否定したい気持ちはわからないではない。
 けれど表現言語としての道具性を無視することはできないし、コミュニケーションを高めるために用いるのであれば、より合理的で、広がりのある使用選択が必要だろう。

 そういう寛容さを持てなかった半島の人々(実際には支配者層、指導者層だろうが)を残念に思うし、その虐げられた歴史の辛さも想像しなければならない。

 半島をめぐる我が国の状況として、例の「人工衛星」問題がある。
 諸国からの自制、中止を求める声に耳を貸さない民族(それは一部には違いないが)は、韓国以上に漢字アレルギー?が強いだろうが、それは「守る」ためであったことは確かだろう。
 守るべきものの存在の検討・吟味ができないことは、使用言語の問題が大きく関わっていると気づかされる。


 さて、半島をめぐる我が家の状況(笑)として、家族に韓流アイドル好きがいて、来週の休暇を利用して韓国へ出かけるという。
 空路が「人工衛星」の軌道と重ならない保障がどこにあるか、と思う。

 「心配」は、コクチョン、コッチョン、ゴッチョンというような感じで発音するらしい。
 もちろん、そんな声をかけたりしないが、漢字のままの心配の気持ちでは、かの国までは届かないのだろうか。