すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

最後の?手帳術を読み解く

2015年12月09日 | 雑記帳
 来年は手帳なんかいるんだろうかと思いつつ、なんとなく手を伸ばしてしまうのが歳末の常である。久しぶりに買ったビジネス雑誌は、結構面白かった。いつものごとく、糸井重里が『ほぼ日手帳』の現在進行的なビジョンを語る。「人間に余白は大切です」という一言が、コンセプトだということが伝わってくる。


 「年収200万と年収2000万」という比較に、この雑誌の意識する読者層があるとも考えられる。どんな習慣が年収を上げるかということが裏テーマなのだ。二つの層を分かつのは、構造的な問題が大きいことは確かだが、それを自力で乗り越え「成功」するために、どんな手帳術が有効だというのか。要約してみる。


 二つの層のアンケート結果から「成功」のために次の傾向を導きだせる。「手書きの手帳を使う」「時間確保として予定をブロックしておく」「スケジュール管理だけでなく目標管理も行う」「手書きをこまめに行う」「データ管理としてはアナログ重視」「タスクの整理は短いスパンで」…手書きを突き詰めてみることだ。


 結局、手帳を使いこなしている人は、書くことに関してワクワク感やドキドキ感がある。またはその利用価値を実感している。もちろん簡単にその境地に届くことは難しい。自分に課すことを積み重ねている、そのために自分に合う手法の選択に果敢に取り組む、おそらくその二つに一定期間力が注がれるだろう。


 「あなたの手帳、同じものが108円で手に入る!?」という記事は面白いなあと思った。なかでも2000円以上する高級手帳と同等のものが「ライバル」として発売されているという。愛用者たちはそれを本物?の名をもじって「ダイスキン」と呼ぶらしい。「ジャパンクオリティ」という外国人の誉め言葉が刺激的だ。

在りすぎについていけず

2015年12月08日 | 雑記帳
 閉校式典を終え、日曜と振替の休みを使って職員旅行に出かけた。行先は「花の大東京」である。もちろん今は花咲く季節ではないが、銀杏を中心にまだ紅葉が楽しめる。気温にも差がある。全体的な「光」の量にはいつ行っても唖然とするしかなく、まったくそのギャップを味わうために出かけているようなものだ。


 見聞体験をいくつか拾ってみる。初日お昼の自由行動時間に、上野の寄席に入った。わずか1時間半ほどで、名の知られている芸人は出ておらず、それがまた新鮮だった。日曜お昼で観客の年齢層はまちまちで、笑いに差が際立つ。認知度を上げるためには、ターゲットを絞るか、客層拡大のネタを練るか、どちらかだ。


 二日目の朝に首相官邸、国会議事堂近辺を歩く。それにしても警備が物々しい。考えてみれば当然か。常にテロ対策なのだ。皇居前に行くと一部開放があるということで、凄まじいほどの行列が動いている。休日でもないのに圧倒的な数、間違いなくここは日本の中枢であり、諸外国から見ると典型的な風景なのだと思う。


 お昼前に歌舞伎座に行き、一幕見席に入る。すでに立ち見しかできなかったが、4階から見る姿も刺激的だ。田舎者ができないことの一つに「掛け声」がある。比較的近くに声の主がいるようだ。気合いの入った強い声ではないが、絶妙のタイミングだ。3,4階から掛けるからこそ「大向こう」と言われることを知った。


 昼食はカレーうどんの名店へ。もう何度目になるだろう。不味くなったわけではないが、やはり初めて来た頃の感激はない。味だけではなく、慣れとは怖いものだ。少し批評的に書くと、だからと言ってメニューを増やしたからといって、リピーター客には受けまい。ここでしか出せない味を突き詰めていくべきだ。


 歩いた、歩いた。いつもながら都会へ出ると移動のための歩行は半端ないほどだ。大きな文房具店での手帳や書籍選びを楽しみにしていたが、足が疲れきって集中力を欠き、早く切りあげた。手帳探しで言えば、たくさんの種類から選べる幸せは確かにあるが、在りすぎると本質以外の要素がだんだん拡がっていく。

全てはイリュージョンと知れ

2015年12月04日 | 読書
 【2015読了】121冊目 ★★
 『世界を、こんなふうに見てごらん』(日高敏隆  集英社文庫)


 もうお亡くなりになったが「動物行動学の巨人」と呼んでもいい方だろう。正直その分野は関心が薄いほうなので、するっと入ってくる内容ではなかった。しかし、読み終えて改めて目次を見直すと、その一つ一つが「学問」をするうえで必須の心がけのように思えた。三つを挙げてみよう。


 「なぜ」をあたため続けよう

 行ってごらん、会ってごらん

 じかに、ずっと、見続ける


 興味の対象がなんであれ(自然科学と言われるものが顕著だろうが)こういう習慣をつけた人は強いと思わざるを得ない。翻って学校教育の現場で、だんだん希薄になっている点のようにも思われる。「行ってごらん~」は体験重視ということである程度は進んでいるが、これにしたって他の二つがなければ駄目なのだ。


 この本のなかで一番心に残っているのは「イリュージョン」という言葉だ。言葉だけだと引田天功(2代目)をイメージしてしまうが、ここでの使われ方は「人間がつくり出した概念的世界」を表すとしている。つまり人間は「色眼鏡を通してしか、ものが見えない」ということらしい。養老先生の論ともつながるか。


 講演録が一つ収められ「イマジネーション、イリュージョン、そして幽霊」という演題である。タクシー運転手の幽霊の話が面白かったし、実に象徴的だ。イマジネーションの欠如が幽霊に結びつくというのは逆説的だが面白い。イリュージョンを剥がして次のイリュージョンへというのが、科学の本質かもしれない。

休みは病気か事故か2通り

2015年12月03日 | 雑記帳
 職員から「病欠と事故欠の違い」について訊かれた。「病欠」とは辞書にもあるように「病気による欠席」であり、「事故欠」が一般的な用語でない以上「病欠でない欠席」が事故欠に該当するだろう。前にも調べた気もしないでもないが、基になる通知等があるかどうか調べた。その結果、見つけることはできなかった。


 校長裁量による決定だ。難しいのは「検査等による通院」。病気もしくは疑いがあっての最初の通院であれば病休で文句はない。しかしその後の検査をする定期的な通院であればどうか。なんのための区分かと考えたとき、出欠の資料なのだから、後で視る人の判断の材料としてどちらがふさわしいか、考えればわかる。


 いずれにしても法的に問題はない。ただ「事故欠」の範囲が広いのは結構困る。例えば…と昨今の家庭事情を書きだそうと思ったが、差し障りも出そうで口を閉じる。最近そうした口災いの新聞記事などが目立つようになった。公務員だから慎重にという姿勢は分からぬではないが、この傾向がエスカレートすると怖い。


 仕事上で何かを判断するとき、私たちは最終的にはその根拠を法規に求める。同時に問題を取り巻く情勢を見る。保護者や住民の意識も大きな参考材料だ。ポピュリズムは警戒するが、内容によってはそれを上手く利用する方法もあろう。原則に立ち返って運用すること。そうでなければ、何度も何度も振り回される。


 欠席の帳簿処理は難しくない。しかし忌引のような特別な場合を除き、全てを「病気」と「事故」に区分するのは正直迷うこともある。ただ結局、その二つで事足りるという考えも浮かんできた。そうだ!子どもが学校を休むとき、理由は病気か事故かのどちらかだ。本人とは限らないけど(笑)公言できないけど(笑)

幸せそうに見える人が語る

2015年12月02日 | 読書
 【2015読了】120冊目 ★★★
 『毎日トクしている人の秘密』(名越康文  PHP研究所)

 題名だけみると、よくある自己啓発書のように感じる。しかし部分的にはそうにせよ、やはり名越先生はちょっと一味違うなと思わせられた。大きなテーマは「幸せ」。唐突に、この問いに関して精神科医の方々はいったいどんなアプローチをしているのか興味が湧いた。幸せでない精神科医もおそらくはいるだろうに。


 テレビ画面でしかお目にかかれないが、名越先生は幸せそうに見える一人だ。それはどんな状態を指すかということを「ひとつの定義」として挙げている。「その人の社会的なミッションを果たしていくことが、それほど億劫ではない状態である」…ごく単純には仕事に打ち込んでいることだろうか。そりゃそうだ。


 武術家甲野善紀氏のエピソードが数多く登場する。そこからの学びを上手に提示している。こうした達人との出会いをどんなふうに消化し、昇華していくか、そこがきっと分かれ道だ。盲目的にとは言わないが、巨大な太鼓を前に様々な叩き方をして、その音色を楽しむような趣きがある。出会いを学びつくしている。


 おっと思う箴言、警句が多い。例えば「苦しみとは現実ではなく、感覚なのだ」例えば「自由と幸福とは決して相容れない」例えば「後ろめたさがなければ思想ではない」…いずれも説明を伴わないと納得できない句だ。筋道を踏まえて自分の言葉で理由づけできれば、しっかりこれらの言葉を身に付けたことになるか。


 上に挙げた箴言、警句を読めば想像できるが、この本は「ことば」の吟味が迫られる。「不安」とは、「場」とは、「思想」とは…そして「死」とは「生」とは、という宗教論に近いところまで掘り下げている。辞書的な常識とはかけ離れた解釈もあり、心理学における多面的な理解の仕方についてヒントになる気がした。

霜月、句読点ついたか

2015年12月01日 | 雑記帳
 霜月と言いつつ、記憶では霜が降りたのは一日のみ。結局一日も積雪のないまま11月を終えたことが、果たしてあっただろうか…。気候的には恵まれた。また仕事も前月に発表会を終え、ある意味で年間の最充実期と言ってもよかったかもしれない。「魔の11月」という形容もあるが、切り抜けられたように思う。



 上條晴夫先生を迎えての町研修会を、本校を会場に開催できた。「リフレクションで伸ばす授業力&教師力」をテーマに、ご講演いただいた。明日の授業に即役立つ内容ではなかったが、一ヶ月後、一年後、五年後…に芽吹き花開くための養分が注ぎ込まれた感じがした。どんなふうに身体に巡らせるか、が鍵になる。



 佐藤正寿先生とかつての同僚である菅野宣衛先生を迎えての授業研修セミナーは、今年の一つの大きな節となったように思う。今までの研修を通じて話題になったこととどう結びつけるか、自分の「コア」を活かしどう焦点化させるか、これも各自の課題だ。その流れのコントロールや激励が残された仕事となるだろう。



 道徳や特別支援の指導主事来校もあったので、結局毎週何かしら外部の方々が入った研修が持たれた。道徳も特別支援も実に根本的な課題である。一番肝心なことは受け身にならないことではないか。少なくとも自分の立ち位置を確かめ、その上で真摯に向き合えば、いつも収穫はある。そのための自己凝視が必要だ。



 適度に休みもありながら、結構めりはりのあったひと月であった。退職書類作成から届出なんていう迫りくる大事(笑)もあったのだが、正直あまりぴんと来ていない。ぼちぼち考えねば…。悔しいのは2年以上続けたブログ連日更新がとうとうストップしたこと。11月20日である。まあ仕方ないか。いい句読点だ。