すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

啓培の精神に欠けていた

2015年12月19日 | 雑記帳
 例の原稿書きシーズンのネタ探しで、昔の文書などをあれこれひっくり返していると、思わず目を留めてしまう一枚に出会ったりすることがある。「ことがある」と書いたが、実は頻繁なことを、知り合いの多くは予想しているだろう。今回も全くそう。懐かしさに浸る老化現象と笑っていただきたい「第一弾!」である。


 その資料が、かつて同学年を組ませていただいたF先生の字であることはすぐわかった。私が手書きした「3年2組 算数科学習指導案」と関連プリントに挟まれてあった。「藤沢利喜太郎 算術条目及教授法」とある。扱った題材は「わり算」の筆算の導入、おそらく協議後にそれに関わる文献を紹介してくれたのだ。


 筆算の仕方が10通り紹介され、国によって違いがあることもわかる。藤沢利喜太郎は算数数学界ではずいぶんと有名な方のようで、引用されている「算術条目及教授法」のなかの例として4種類が載っていた。そこに「①が一番よくて、④は排除すべき考え」とある。実はその④が日本で採用されている方式なのだ。


 藤沢の著書の引用かどうか定かではないが「※論理性の啓培」とあって「唯一絶対であると思い込んでいたわり算の形式も、絶対か疑問になってくる」と書かれてあった。きっと、当時水道方式に夢中になっていた自分には届かなかったろう。まさに「啓培(けいばい)」の精神に欠けていたことに、今さら痛みを感ずる。


 これは紛れもなくF先生の言葉。「いいたいこと」と囲みがあり、こう書かれている。「わり算の形式でさえ、自由に選択させるか、新しい計算方法を創造させるかという方法で教材化できるのではないか」。真の意味で、学びを成立させようとすれば、とことん教材に向き合う姿勢が必要だ。その頃の自分、沁みたのか。

売れっ子気分に自嘲

2015年12月18日 | 雑記帳
 原稿書きシーズンがやってきた。年度末の様々な集約などに向けて,原稿を書かなければならない時期である。先月にリストアップは終えていた。校内が3件,校外が6件で全部で9つ。そのうち一つは締め切りが先月で終了し,残るは8つ。いずれも今学期末か,一月中旬までが期限。この時ばかりは売れっ子である。


 文集や研究誌の巻頭言などはここ数年ずっと書いているので,似たような題材だと困るし(と書いて,誰も困らないだろう。そんなに読み手が覚えているわけでもないし…という内なる声。結局,自分が嫌だということだ),それなりのネタが必要だなと,その材料集めに時間がかかる。無関係のネタでもいけないし…。


 ざっと見積もって,これにはこれ,あれにはあの事を…と割振りした。しかし,中身まで詳しく決めているわけでない。何を中心にするかも決めていない。いやあ無謀かなあと思いながら,とにかく形式にそって打ち込みを開始してみる。構成を決めずに心の向くまま打ち込んでいくと,それなりに文字は埋まっていくが…。


 で,後半に近づくと,当然ながら中心が決まっていないので散漫な文章となっていることが,自分自身にも伝わってくる。そこで読み直しをしてみると,自分の書きたいことは何か,もしくはここに載せるにしっくりくる部分,といったことが浮かび上がってきたりする。以前にもそんなことはあったが,再発見だ。


 担任していた頃の手書きの学級通信は,書き出しからお終いまでの一本勝負で,中身はあちこちに行きながらいつもたどり着いていた。一部でその感覚を思い出したりして楽しかった。ただコピーペーストが容易な今は,まとまった文章を書くには適しているが,修正が効くゆえに,どうも緊張感に欠けるのも確かだ。


 今回は「思い出」ネタが多いので,ふと寝床で材料が浮かんだりした。短い分量なのでPCに向かい書き始めたのはいいが,つまらなく思えてボツにした原稿もある。書くことはこのブログ修業(笑)のせいか,そんなに苦にならないが,なんとも中身が薄い気がする。ここらで断筆宣言して,活動期に入るか(迷)。

漢字アタック力の強化

2015年12月17日 | 雑記帳
 昨年も書いた記憶がある。今年も少し規模を縮小しながら、「今年の漢字」応募が続けられた。漢検が発表する直前に、校内ブログで紹介したのがこちら。「安」が発表された後に見たら、それを掲げた子が2名いた。ちなみに、「五」と書いた子は五名、全国順位でも五番目というのは何かの因縁のようで、実に面白い。


 「世相を表す」ことから離れてもいいから、というゆるい設定も設けたので、低学年は今年も自由に?書いていたようである。何のためにと問われれば、私なら、それでもいい、漢字への興味関心を高めればいいのだ、言うなれば「漢字アタック力」の強化だ!と野口芳宏先生が言いそうもないことを口走るだろう。

 ということで、目に留まった名作紹介である。


 「六」…いもうとが生まれて六人かぞくになった。

 「五」を凌駕した。


 「作」…何かを作るのがすきなので、このかん字にしまた。

 そう、そうでいいのです。「すき」が一番です。


 「心」…やさしい心をイメージしてみました。

 心のいう字の形はそうだったな、と忘れていたことを思い出す。


 「一」…一ばんさいしょにならったかん字だからです。

 このシンプルさ。大人は忘れていませんか。


 「数」…ことしならったかけざんで、さん数がすきになりました。

 担任は、涙したにちがいない。


 「考」…かんがえれば、あたまがよくなるからです。

 教育目標にしたいほどです。

マイナンバー、改名提案!

2015年12月16日 | 雑記帳
 『マイナンバーが誰にでもすぐわかる本』という週刊誌Bの臨時増刊があったので購読してみた。連載していたものをまとめたらしい。28の設問に答える形での説明が載っていた。まあわかったことは3つ。「マイナンバー制度は課税逃れを防ぐため」「貯金とのひも付きが一番の課題」「とりあえず動かなくてもよい」


 退職間近な身にとって、何が予想されるのか、まだ飲み込めない。脱税など出来る身分でも、野心もないので、影響ないか。読んでいて面白かったのは、類似した制度がことごとく失敗していることだ。「グリーンカード制度」「住基ネットワーク」、もし「国民総背番号制」という名称だったら、今回も駄目だったろう。


 しかし現実は、その通りなんだなと思ったら、とたんに「マイナンバー」という名称にイチャモンをつけたくなった。そもそも「my」という語は「私の」という所有を表しているわけで、「number」という「番号」を他者から割り当てられることはおかしくないか。希望してつける、選択してつけるなら別であるが。


 マイナンバーは「例外をのぞいて、一生変えられない」。届いた人は気づいたろうが、家族であっても何の関係もないランダムな番号なのである。こうした記号を「人」に対してつけるのはどうかと思う。「マイカー」や「マイハウス」の番号ならば、所有がはっきりしているものの識別であり、それはそれで納得できる。


 マイナンバー撤回!少なくとも「マイ」は撤回!と本当は先日行った国会議事堂の前で叫ぶべきだったか(笑)。では代案を示せと言われた時のために(誰も言わないが)考えてみた。目的に照らし合わせたら簡単でしょ。「ゼイナンバー」。そうです、「税」。そこまで言ったら「税番号」…「ゼイバン」でどうでしょう。

ヒネモスの時代を思い出す

2015年12月15日 | 読書
 【2015読了】123冊目 ★★★
 『私は嘘が嫌いだ』(糸井重里  角川文庫)


 なんと昭和59年の文庫本。中古書店Bで108円購入。体裁は悪くなかったがさすがに黄ばんだページ、活字も小さい。『話の特集』誌で連載されたらしいが、その当時はもう購読を止めた頃だったろうな。記憶にない。内容は糸井がコピーライター絶頂期に、いわゆるサブカルチャー的な妄想?を語ったという感じだ。


 読み始めてみると、中身よりなんだか文体が懐かしい。「~~なのである」という文末が典型的で、自分もそんな感じで書き散らした頃のことが記憶の水面に浮かんでくる状態なのである。これは私の場合、多分に筒井康隆作品に影響を受けたのではないかと思われ、しばし、あまりに青臭い時代に思いを馳せたのである。


 糸井が書いた内容も「ナンセンス文学」的と言えるはずだ。「ナンセンス」の学術的な分析は到底できないが、ここから読みとれる特徴としては、熟語として通用している言葉をわざとカタカナで書いてみたり、表記法によらず発音どおりに書き表したりという点にも表れている。こういう斜に構えた雰囲気が懐かしい。


 とは言っても稀代の言葉操り師である糸井は、すでに昭和の時代に数多くの名言を残している。それはコピーライターとしての仕事以外にもたくさんあったという事実を、この古びた文庫からも読みとれる。いくつか拾ってみよう。とまあ、結局趣味が似ているからこうした言葉が響くだけと、つくづく思うけれど。


 「アイディアマンと呼ばれる人は、アイディアマンと呼ばれてしまう限界を身に備えているのだと思う。」

 「『ない時代』だから『ない』はずだ、などと考えるのは早計である。それは、確かに存在する。『ない時代』は、ちょうど、『真空』というものが『ある』ように、厳粛に存在するものである」

 「ヒネモスとゆーのは、少年期の私が発見した海中生物の名称であって、こいつは、春の海にぽかあんと浮かんで、ただただのたりのたりとしている幸せなやつなのである」

羽生の言葉を噛み締めたい

2015年12月14日 | 読書
 スケートの羽生ではなく、将棋の羽生である。季刊発行のある広報誌に棋士羽生善治のインタビューが載っていた。著書や雑誌等の記事を読んでも非常に明晰な言葉を使う人だなあといつも思う。今回の記事も密度が濃い。将棋の戦法が絶えず更新されているという現状認識のもとに刺激的な言葉が繰り出されている。

 
 「人は経験を積んで、何がリスクになるかを学習します。そうなると今度は、できるだけリスクを回避しようとします。しかし、長い目で見ると、それでは発展は望めませんから、頑張ってアクセルを踏み込む勇気を持たなければなりません。」


 仕事のなかみが、時々「リスク回避」だけになっているのでは…と思わされることがある。例えば「危機管理」という言葉も拡大解釈され、そのものが目標になったりすることもある。今、目の前にあるリスクは全体のものなのか、組織のものなのか、私のものなのか…区別も曖昧になっている。「覚悟」が大事である。


 「小さな『負け』は、大きな『負け』を防ぐために必要だと考え、受け入れる覚悟もいると思います。」


 未読ではあるが『大局観』という新書があったと思う。その点と将棋や勝負事にある「読み」という二つの重ねを、身近で見事な例で説明している。将棋会館を初めて訪れる人に必要なこととして、初めに大雑把な位置や方角を知り、駅等で降りたら番地や周囲の目印を確かめる、という2段階があることを強調する。


 「ゴールの方向を『大局観』でフォーカスし、『読み』を積み重ねて一歩ずつゴールへ近づいていく。」


 トップ棋士としてのモチベーションのあり方を問われ、答えた言葉は実に納得だ。オリンピックを目指すアスリートと違い、年間60局以上何十年も続けるプロ棋士が「つねに高く保ち続けることは、ほとんど不可能」と言う。職業柄、ある面で教師も同じではないかとすぐ頭に浮かんだ。噛み締めたいことばがある。

 「モチベーションは『天気』のようなものだと考えています。元気な晴れの日もあれば、どうしてもやる気の出ない雨の日もあるでしょう。(中略)雨の日は雨の日なりに、きちんとした将棋を指そうとは思っています」

「からたちの花」は知らなかったよ

2015年12月13日 | 教育ノート
 昨年本校で教育実習をした学生から、卒業論文作成のための研究授業をさせてほしいという依頼があった。以前受け入れたときの学級担任の了解を得て、同じ6年生のクラスで、国語科の授業が3日間連続で行うこととした。題材は「からたちの花」。かの北原白秋作の詩である。詩の読みとりを3時間で行う計画だった。


 1時間目に「からたちの花」を想像して絵に描こうという課題があった。その是非はともかく、私だけでなく参観していた他の職員も「からたち」自体をあまりよく知っていないことに気づいた。白秋の詩だけでなく、島倉千代子の歌でも馴染んでいるはずなのに…。北国に住んでいるからとは言え、その程度なのだ。


 ひとしきり反省し、3日間連続して授業を参観するので、自分ならこうやるという形で感想を渡そうと考えた。指導計画では、研究意図があり初日は1,2,4,6連のみの提示、次時に3,5連を提示するという流れだった。参観しながら改めて詩を読み、「伏字(行)」という前提で指導を以下のように考えてみた。


 からたちの花が咲いたよ。
 白い白い花が咲いたよ。

 からたちのとげはいたいよ。
 いい針のとげだよ。

 からたちは畑の垣根よ。
 いつもいつもとほる道だよ。

 からたちも秋はみのるよ。
 まろいまろい金のたまだよ。

 からたちのそばで泣いたよ。
 みんなみんなやさしかつたよ。

 からたちの花が咲いたよ。
 白い白い花が咲いたよ。



◆1,2,4,6連を提示する
◆音読する

◆「わかること、気づいたこと」を書かせ、発表させる
 (からたちのこと、文頭、文末、自然の移り変わり、1と6連の繰り返し、「白い」などの繰り返し、色がでてくるなど)
◆「からたちの花」を少し想像させてから、写真を提示し説明する

◆3連、5連があることを知らせ、提示する
◆音読する

◆3,5連と他の4連の同じところを言わせる
 (文頭。文末、繰り返し など)
◆3,5連と他の4連の違うところはどこか考えさせる
 (人がでてくる、自分のこと、動きがある)
◆3,5連のわからないところはどこかを書かせ、発表させる
(垣根、「とおる」「なく」「みんな」など)
◆みんなの疑問を想像してみよう

(ねらい、実態によってAかBでまとめる)
◆A みんなから出た疑問を想像しながら、短い物語を書いてみよう
◆B なぜ一連目と六蓮目が繰り返されたのか、その訳を考えよう

今週の不具合、五連発

2015年12月12日 | 雑記帳
 Outlookがセーフモードで起動した。今までなかったことだ。終了の仕方が悪かったのか、いろいろやってみたらネット上でも同様のことが話題になっていた。Updateに不具合があったということで削除して解決。そもそも不具合解消のためのUpdateではないのか、と変な気分だ。「具合」という言葉も気になる。


 時計の不具合。秋口だったろうか、腕時計が動かなくなり何度も調整した。ふだんあまり持ち歩かないので太陽電池が消耗して狂ったらしい。電波時計でもあるのでマニュアルに従って直し、それからはこまめに使って異常なし。「使う」ことが対策なのだ。と思ったら、デジタルとアナログのずれが出てきて再調整だ。


 身体の不具合。今週初めの旅行ではふだんの運動不足を痛感。二日続けて13000歩程度を歩いただけでもう駄目とは、いかにも情けない。これも「使う」に尽きるのかもしれない。足の疲労は全身にくるものだなと改めて思う。ふと「具足」という言葉を思い出す。具を上手に使いこなして足りていくということだろう。


 心の不具合。あるカードが見当たらない。いつもは財布にしまっているのに…。さてはあの店で落としたか。いや、別の所にしまい忘れただけではないか。最近着た背広の内ポケットなどを触っても反応なし。これは届け出か、再発行か。…と何気なくさわった服のポケットの中に、硬い物体がある。「しまう」も大事だ。


 天気の不具合。これだけはしょうがないか。今年は雪が遅く大変助かってはいるが、なんとなく「後が怖い」と感じてしまうのは雪国に住む者の常か。それより温暖化による気温上昇、それに伴う蒸発の多さが続き、豪雨が目立っていることはもはや「具合」の域を脱している。所詮、人間の作った小さな言葉なのだ。



 「具」は単独では料理の材料、かやくを表すが、語源辞典によると「中国語からの借用」で「そろえる」「十分にそなわる」がもともとの意味である。「具合」とは改めてみると実に含蓄のある熟語だ。実務的かつ汎用的で使われ方も広い。仮に「具合のいい人」と書けば、比喩としては実に多面的だ。不具合な頭で考える。

「ほうがいい」という捉え方

2015年12月11日 | 読書
 【2015読了】122冊目 ★★★
 『平常心のレッスン』(小池龍之介  朝日新聞出版)


 初任の時に受け持った学級で「好きな言葉」を訊いた時、「ラク(楽)だな」と呟いた子がいた。昭和50年代の雪深い山村であっても、そういう風潮はすでにあったのだ。この新書で「喜怒哀楽」について書かれた文章を読み、「楽」が一番のポイントと知ったときに、ふと昔のことが蘇ったのは何の因果なのだろう。


 仏道での「喜怒哀楽」の捉え方について、問いが立てられて「あえて」という形でまとめられた一言は次のようであった。

 「喜」はあったほうがいい。
 「怒」はないほうがいい。
 「哀」もないほうがいい。
 「楽」はあったほうがいい。


 なんだ、誰しも思うことではないか、結局「快/不快」の問題ではないか…と早急に決めつけられない。最終的に「喜怒哀楽」そのものを強く肯定しないという視点なのだ。文章として「ほうがいい」に強く表れている。「喜」と「楽」もいいが「怒」や「哀」が出てきても仕方ない、というのが平常心の姿勢である。


 「喜怒哀楽」のレッスンを考えるときに大事な点が示されている。それは「慣れ」ということ。快を引き起こすドーパミンの分泌と結びつけて、結局のところ快が続けば「もっともっと」という状態になり、それは不快としか言えなくなる点についても考えさせられた。快が「同じ強度で反復できない」ことも納得だ。


 「資本主義というシステムの巧妙さ、恐さ」に気づいている人は多いけれど、構造を知るだけでなく、消費的な感情や行動の連鎖をどこかで断ち切らなければいけない。例えばこの言葉を噛み締めたい。「サプライズ(驚き)は心に毒」。むろんその質にもよるが、仕掛けているようで仕掛けられている自分も見極めよう。

今クールのドラマメモ

2015年12月10日 | 雑記帳
 遊川和彦脚本の『偽装の夫婦』は通して視聴した。主演天海祐希の「陰の声」を入れるシチュエーションが面白く、それなりに楽しめた。つくづく思うのは、同性愛者の認知度、許容度が高まったこと。話の中で保育園保護者から総スカンを喰う設定は確かにあるが、乗り越えさせて普遍性をアピールする顛末なのだ。


 初回からなんとなく続けたのは『サイレーン』。若手イケメン俳優のMのアクションを売り物にしようとしたのか、初回だけそんな場面が多かった。しかし体のキレが今一つで、それ以降ほとんどないのが泣ける(笑)。たいしたドラマではないが見所は菜々緒の悪女役。これが「完全悪女」そのものでぴったりとハマる。


 一週遅れで見る『下町ロケット』。原作は以前文庫化されたときに読んでいた。確かに描かれる場面はドラマチックであり、企業人としての矜持を感じさせるものだ。反面、主人公の家庭の描き方は単純というか唐突というか、バランスが悪い気がしている。談春はともかくお笑い系のタレント採用は当たり前になった。


 『無痛~診える眼~』は今話題の医療作家?の原作。これはなかなか展開が面白い。超能力なのか病気なのかゴチャゴチャしている設定も刺激的だ。ただ伊藤淳史の刑事役はどうかと初回から思っていた。頑張って演技しているのはわかるが、見ていて少し辛い。刑事モノには適役がある。「相棒14」はいつかの機会に。


 おまけ…BSで放映していた3年前の話題になった映画『桐島、部活やめるってよ』を見た。同じ場面を違う視点で繰り返す手法は確かに斬新だった。主題は分かりやすいが、老夫婦の素直な感想としては「高校生って面倒くさい」だった。それにしても様々な若手俳優が出てきて、軒並みNHKに出演していることに驚いた。