すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

オザケンのモノローグに◎

2017年10月11日 | 雑記帳
 録画していた「SONGS~小沢健二」を観た。90年代、ミュージシャンとして注目はしていなかったけれどどこか印象づけられる存在だった。いわゆる「渋谷系」の意味はよくわからなかったが、それまでとの違いを強く意識させた一人だ。今回の放送もまた独特の雰囲気を醸し出し、その世界観を強くアピールした。



 歌よりも単なるMCと違うモノローグが魅力的だった。4歳の長男が日本に来ると必ず自動販売機の前で立ち止まるエピソードを話し「宇宙から降りてきたロボットのようで不思議に光る姿でじっと町を見ている」と表現。誰からも盗まれずに存在する自販機を文化の象徴とし、そういう文化が町を作っていると結んだ。


 「三割増し」と題されたモノローグは、「インスタ映え」が渦巻くこの国の現況を見事に切り取る。自分をよく見せようと「神話」を作っているとバサリ。芸能界から姿を消した理由についても「自分について神話を作ってしまうかもしれない。だったら、現在の目に見えるものを報告した方がいい」と自省的に語った。


 「英語のテスト」は、完全な教育論であった。こんなフレーズにドキッとした。

 おそらく「日本人は何年も学校で英語を習うのに、英語をしゃべれない」という言い方は正しくない。
 本当はたぶん「日本人は何年も学校で英語をならうからこそ、英語がしゃべれない」のだと思う。
 多くの人にとって英語は、人と話すための道具ではなくて、テストの科目になってしまっている。
 だから、英語をしゃべる状況になると、自分の学力を問われている気がしてガチガチに緊張してビクビクしてしまうのだと思う。



 スタジオに招かれたのは友人や知り合いだということだった。そのなかの誰かや違う誰かの方へ顔を向けながら、微笑みつつ、こんなふうにも語った。

 見ていると、気のせいかもしれないけれど、大学に行かなかった友人たちには、「英語の成績なんて悪かったから間違っても全然平気」という気楽さを感じる。
 一方で、いわゆる高学歴組には、「ここで発音や文法を間違えたら、みんなの前で大恥をかくことになる」みたいな緊張感を感じる。


 英語教育の持つ(「かつて」とつけたいが…)典型的な「減点法」が、外国語を習得するのに必要な「間違える力」を削いでいると語った。それは別に英語に限ることではないだろう。モノローグの結びはこうだ。「この世は結構、減点法ではなくて、加点法で動いている。小さな子どものような間違える力を持ちたい。

あの時の「材」の重さ

2017年10月10日 | 読書
 たまに読みたくなるシゲマツ本。ちょっと小説を読みたい気分のときに、安心して手に取れる作家だ。中味を見ずに選んだら、いわゆる震災をモチーフにした短編集だった。ああシゲマツも書いていたか、そうだろうなあと思った。こうした類の本は、被災地・被災者との距離を確かめるうえでも時々読んでおきたい。


(七高山より 秋朝)

2017読了98
 『また次の春へ』(重松清  文春文庫)


 物語を作っていく才能の一つに、取材や選材する力があるのは間違いない。その意味で凡人(少なくとも自分)が気にも留めなかった「材」が話のなかに登場すると、びくっとしたり、じわじわと考えさせられたりする。この話のなかでは「死亡届・家族の申述書」「カレンダー」「住居移転手続き」等がそれに当たる。


 行方不明者の捜索は、繰り返し何度も報道され、様々なドキュメントもあった。結局、思い切らなければいけない状況…この小説でもその区切りの難しさがぐっと迫ってきた。物事は、生きている者の論理や感情でしか動かないものだが、不明者の死亡届に関わる場合、判断を決める心の傲慢さを人は時々忘れそうになる。


 『記念日』にあるカレンダーの存在感に心動かされた。被災した方々はどんな気持ちでカレンダーを眺めていたのか。送る活動を始めた側の思い、送られた側が持つ多岐で複雑な感情…あの年のカレンダー3月分の1枚にはあまりに多くの心が寄せられることを想像すると、「材」の持つ重さが、ずしっと伝わってきた。

完結しない秋

2017年10月09日 | 雑記帳
 日増しに秋深くなる景色が目に入る。この季節、ふと詞やメロディが浮かんでくるのは『まっかな秋』。今流行りの曲もいいけど、しみじみと日本人らしさを感じるのはこうした歌だ。今朝も早くから近くの森へ入った。まだ紅葉には届かないがもうすぐという気がする。そして家の周りには、再び姿を見せる赤い実たち。



 「子供は3歳までの可愛さで、十分に親孝行するんだよ」と家人がかつて同職した先輩職員に聞いたと話していた。しかしこれは、正確には安倍譲二作の『塀の中の懲りない面々』に出てくる老受刑者のこの言葉だ。「誰でも、生れた時から五つの年齢までのあの可愛らしさで、たっぷり一生分の親孝行は済んでいるのさ。」



 先日FBでシェアされていた「18歳と81歳の違い」には大笑いした。一つだけ紹介すると「道路を暴走するのが18歳、道路を逆走するのが81歳」。そういえばと思い出した記憶。10年前くらいにパロディっぽく作った詞があった。題名は「51の朝」。尾崎の「15の夜」をもとにした自虐歌。どこに仕舞ったのかな。


 何年振りかでTV「NHK短歌」を観た。選者は永田和宏氏、ゲストは齋藤孝教授。題は「走る」で、久しぶりに見たせいか、ずいぶんと投稿されている作品が現代風だなと感じた。最後のコーナーで選者が「短歌」の極意を挙げていた。言い方は不確かだが「作者が完結させない」という意味だと記憶した。得心した。

異説・ゼロの焦点

2017年10月08日 | 雑記帳
 「細かいことが気になってしまうのが、僕の悪い癖」by杉下右京…シーズン16開始を前に、右京さんとあえて(笑)似ている所を探してみたら、そういうところでした。で、今回気になってしまったのは、某政党代表K氏の出した「ゼロ」ということ。普通に「何もないこと」の意味には違いないが、本当にそれでいいの?



 日本国語大辞典では「ゼロ【零】①数字の一つ。0のこと。また、正でも負でもない実数。②何もないこと。また、無価値であること。③得点のないこと。零点」とある。改めて読むと面白い。この数学上の偉大な発見は言葉として「無価値」を含む。辞書系はほぼ似ているが「シソーラス(類語)」はさらに興味深い。


 区分が「無価値」の他に七つある。「最低」「無用」「微量」「最弱」「空(から)」「空疎」「裸一貫」…なるほどと思う。量がないことの他に、質が限りなく低い、そして起点、基点の役割を果たしている。松本清張の『ゼロの焦点』は何度も映画化されたが、どういう意味か改めて考えれば「起点」ということなのだろうか。


 それにしても公約として掲げられた「12のゼロ」。多くのことはそう願いたいが、レベル差が大きすぎる。また直接関わっている方々はどんな気持ちで聞いたのだろう。当然「じゃあ、都知事選の『7つのゼロ』はどうなったの」という反論、反感はあるわな。「ユウバリタンコウかよ!」というツッコミも出てくるわな。

 ①原発ゼロ②隠ぺいゼロ③企業団体献金ゼロ
 ④待機児童ゼロ⑤受動喫煙ゼロ⑥満員電車ゼロ
 ⑦ペット殺処分ゼロ⑧フードロスゼロ⑨ブラック企業ゼロ
 ⑩花粉症ゼロ⑪移動困難者ゼロ⑫電柱ゼロ


 これらをシソーラス的に言い換えて遊んでみる。「隠ぺい、最低!」「企業団体献金、無用!」「受動喫煙、微量?」…なかなかイケル。「満員電車、裸一貫」…これはシュールか。とにかく「ゼロ」と示すことは誰にでもできるわけだし、安易に使いたくない。この言葉遣いが、空になるか起点になるか、そこが焦点だ。

信念の社員食堂

2017年10月07日 | 雑記帳
 先月のある昼にTVで放送されていた『サラメシ』。宅麺を食しながら見るともなしにつけていたが、ある言葉に反応して見入った。…「社員食堂」そして確か「老舗出版社」と続いたので、これは新潮社に違いないとすぐにぴんときた。ちょうどPR誌「波」が8月号から連載をしている。とにかくこれには驚いている。



 「銀の皿~新潮社社食の半世紀」と題して、エッセイストの平松洋子が書いている。放送でも触れていたが、びっくりするのはこの箇所「長年、不動の一食二百円を守る。創業昭和四十一年、今年で五十二年め。」学食であっても昭和期の値段ではないか。原価割れは当然だが、そこには「会社の誇り」があるようだ。


 毎日利用するという佐藤社長へのインタビューで、その答が語られていた。「合理的にやろうとすると、いいものを失いがちだから、あまり気にならない。短期的、数字的、経営的に正しいことがトータルとして正しいかどうか、必ずしも一致しない」。何が社員食堂の本質かという話は、しっかり信念に支えられていた。


 メニューはもちろん、厨房の様子、スタッフの考え等がわかり、実に魅力的だ。それは、一回目を「」と始めた連載が翌月「」と続き、その翌月に突然「第3回」となったこと(つまり連載延長)が証拠。さらに驚愕の事実!TVに出た青木シェフ、天皇陛下にえびチリを召し上がっていただいた経歴もあるそうで…。

重鎮の整理棚から引き出す

2017年10月06日 | 読書
 2008年頃だったろうか。『思考の整理学』が東大生・京大生によく読まれるというデータが出てベストセラーを続けたのは…。今も売れているそうである。自慢ではないが(いや自慢か)私は前世紀のうちに読んでいました。その割に思考が整理されないのは、どういうわけか。「老い」かと考え、次の新書を手に取る。

2017読了97
 『老いの整理学』(外山滋比古  扶桑社新書)




 一読してすぐ中高年をターゲットに「整理学」と題しベストセラーにあやかる商法(外山先生ではなく、編集者がネ)だなと思った。しかしそこは重鎮中の重鎮、きちんと読ませ所を心得ていて、繰り言はあるが気軽に読むことができた。ただ、積極論、自重論を織り交ぜており「整理」はしづらいかなあとも感じた。


 いや一つ別の視点から見ると、この新書は一種の整理棚のようになっているかもしれないとも考えた。引き出しが豊富にあり、ラベリングされている箇所を引き出すと、中味がきちんと整理されて収まっているような印象。「感情」の棚のラベルには、例えば「ドンマイ」「怒り・ケンカ」「泣く」「威張る」などがある。


 特に心に残る言葉を二つピックアップする。一つは「ゆっくり急げ」。これは「撞着語法」と呼ばれる有名な「負けるが勝ち」「公然の秘密」などの類だが、少し分かりづらい。著者が語るには、急ぐばかりではいけない、休み続けるのはもっとよくない、「リズムをもって生きよ」と言い換えられるそうである。納得がいく。


 もう一つは、上を向いてばかり歩いてきた、つまり少し浮かれていた私達への警句でもある。何事も上向きで成り立つものではない。足元を見る大切さは古人からの教えだ。著者のこの一文には得心した。「下を向いて歩いて前へ進むことのできるのが、人間のいいところである」少しでも、前へ動いていればいいのだ。

枝豆から「緑」成長論

2017年10月05日 | 雑記帳
 仲秋の名月、と言っても雲は厚くお月様は顔を見せてくれない。十五夜と十三夜の違い、栗名月か芋名月かをいろいろ調べたが諸説あるようで、まあ、毎日のように食べている枝豆を出して、勝手に豆名月。何はともあれ「マメ」が一番と考えるのは私だけではないはず…枝豆の緑色を見ながら、思い浮かべたこと。



 「嬰児(みどりご)」という言い方がある。「赤ん坊」は体が赤みがかっているからそう言われる。しかし「みどりご」とは何故か。「嬰児」の他に「緑児」という書き方があり、これは「新芽のように若々しい児」と記されている。植物も赤みから徐々に陽の光を浴びて緑を帯びてくるではないか。緑は、成長の象徴か。


 緑色の背広を着た漫才コンビ「トット」が面白かった。そう言えば去年NHKの新人賞をとったのではなかったか。成長が速い。今回見たネタは、映画の予告篇で、象徴的な場面の切りとり方が上手だった。惹きつけるパターンの台詞をよく研究したのだろう。バックとして一方が歌うGReeeenの「キセキ」は洒落か。


 グリーンと言えば、去年の都選挙で目立った「百合子グリーン」…こうしたイメージカラー戦略は珍しくないが、効果的だった。今回この緑は成長するのか。これをテレビをうまく使った「撒き餌」と表現したのは、武田砂鉄だ。彼の評論にはいつも注目している。Cakes連載「小池百合子のテレビ活用法」が実に鋭い。




名勝負の残す過酷さ

2017年10月04日 | 雑記帳

(この迫力には参った、毒をもつ強さか)

 秋場所のようなことがあっても大相撲人気は続いているようで、盛んに雑誌等でも特集が組まれる。「語り継がれる大相撲名勝負20」と題されたそのランキングは、私のようなごく普通の視聴者であっても納得できた。というより印象深い三つがそのままベスト3になっていて、大相撲の普及度の高さを改めて知った。


 1位は、貴花田が千代の富士を寄り切った取組。いわば「若貴ブーム」の到来を告げた勝負である。千代の富士の引退が印象的であったこともあるか。相撲など見る余裕もない時期だったが、あの勝負の瞬間をTVで目にした時、素直に「若い力は凄い」と感じたことを覚えている。千代の富士は自分と同年齢だった。


 2位は2001年の千秋楽の優勝決定戦。あの貴乃花が武蔵丸を破り、鬼気迫る表情を見せた取組である。あれは凄かった。当時の小泉首相の表彰パフォーマンスは、この首相、どこまでもラッキーな御方と思わされた。そして、3位が今年春場所の優勝決定戦。記憶に新しい稀勢の里が照ノ富士を破ったあの一戦である。


 あの時、誰だったか定かでないが、稀勢の里の強行出場に強い懸念を示した親方がいた。「力士生命」という言葉を出したことを覚えている。それは、考えるまでもなく2位の名勝負に位置づけられた貴乃花を想起させるものだった。どちらも「痛みに耐えて」土俵に上がり、気迫を前面に出して勝ちとった戦いだった。


 貴乃花は長く休場し復帰後も優勝できないまま引退。稀勢の里は周知のとおり、依然懸念が残る。二つの取組の代償はあまりに大きい気がする。何かを犠牲にしなければ心打つ勝負は生まれないものか、と複雑な気持ちになる。結果がもたらしたある意味過酷な運命があるからこそ、名勝負と人は呼ぶのかもしれない。

「ある程度」を保障する構え

2017年10月03日 | 読書
 今「子どもの貧困」と言った時に、衣食住に事欠くようないわゆる「絶対的貧困」を指していると考えるのは、少しピントがずれている。OECDで共有している概念は「相対的貧困」だという。衣食住に関して周りとの落ち込みがあれば「貧困」となる。つまりこれは「格差」の問題。現実に鈍感になっては困る。



Volume80

 「『親次第』というのは生まれる家庭を選べない子どもたちには過酷な結論だ。家庭が提供できないものを、家庭以外からも提供できるといい。そんなことが可能なのか。すべては難しいかもしれない。しかし、ある程度はできる。そしてその『ある程度』がどれくらいなのかで、子どもたちの将来の活躍度合いが左右されていく。」


 「あっていい格差」と「行き過ぎた格差」に目をつけ、その境界線として「相対的貧困ライン」を位置づけた湯浅誠氏(法政大教授)の言葉である。
 そのライン下層に懸念されることは、あきらめや絶望だったりする。

 そこに教育の重要性が語られるのは当然であるが、「膨大な実証研究成果」によると、学校教育による格差是正効果はきわめて限定的という。
 その事実を踏まえて行うべきことが、どのようなことか別に政治家でなくとも簡単に分かる。
 問題はその重要度の認識であり、その財源や仕組みの捻出、創生なのだと思う。

 選挙目当てのような政策も打ち出されているが、是正する本質をしっかり理解できているか。
 そこが肝心であり、それはきっと「格差に対する考えや構え」がどうあるのかによって、大きく左右される気がする。
 一定の財源が振り分けられても、どんなふうに改善されるかは、やはり「質」の問題だ。

嘘でも本当でも生きている

2017年10月02日 | 読書
 大学のサークルの先輩Tさんは「前世が見える」と宣言していた。ある時「お前の前世は、女だ」と唐突に言われた。さらにこう続けた。「平安時代にあるお屋敷に住んでいた」。えっええ、そんな気配は全くないのに…と眉唾で聞いていたら「その前は…」と口を開く。えっ前世の前世…「猫だ」。なにぃ猫苦手です。



2017読了96
 『嘘みたいな本当の話 みどり』(高橋源一郎・内田樹 選  文春文庫)


 ナショナル・ストーリー・プロジェクトという、ごく普通の人の「普通でない」実話を集めた企画が米国にあり、その日本版としてWebで募集、発表されたものの文庫化、第二巻である。第一巻も去年の冬に読んでいる。選者によるとポイントは二つ。「奇妙な後味」と「そういうことって、あるよね」感だそうである。


 高橋源一郎の「まえがき」「あとがき」が実に面白い。ここに寄せられた作品は通常「エッセイ」という類の「本当」の話だろうが、仮に「嘘」が混じっていたとしたら、それはどの程度なら許されるか、いやまたそんな基準が必要なのか、まで考えが及ぶ。それは「人生」もしかり。高橋はこんなふうに記している。

(略)ひとりひとりの人間が「生きる」ということ、それは確かに存在している。しかし「ある人の人生」などというもの、ほんとに存在しているのだろうか。それって、無理矢理「作った」ものなんじゃないだろうか。「人生」とか「奇蹟」とか「秘密」とか「事実」とか、そんなもの、どれもこれも、退屈を紛らわすために作りだした大嘘なんじゃないだろうか。


 「生きる」ことを語るということは、そんな「妖しい気分」が湧き上がる要素もある。それが「本当」なのか「嘘」なのか「事実」なのか「ネタ」なのか、そんなふうに分けるより、語る人間はきっとそこに「名前」をつけたいのだ。それを、他者に通じる言語でアプローチすることを「文学」と呼ぶのかなあと思う。