すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「愛」より信頼に足る物語

2018年02月08日 | 読書
2018読了13
 『俺に似たひと』(平川克美 朝日文庫)


 著者が自身の男親を介護し、見送ったことを「物語」という形式で書いている。ジャンルとしてはノンフィクションに違いないのだが、「」という呼称で語り手を設定し、当事者よりやや俯瞰的な意識を持って書き進めている。介護という現実の中で目まぐるしく湧き上がる感情や思考の跡を残すために必要だったか。



 書名である「俺に似たひと」とは、一義的には、似ていないと思ってきた俺(著者)の父のことを指している。しかし読み進むとその意味の重みが心に迫ってきた。これは読者をも指しているに違いない。そういう世の中を生きている、そういう現実がもうすぐやってくる私たちだ。著者もあとがきにこう記していた。

 「『俺』は、確かにわたしの分身に違いないのですが、わたしそのものというよりは、日本中のどこにでもいる『俺』たちのうちのひとりでもあるのです」


 「俺」の介護生活は2009年の暮れから11年の6月まで続き、その間の世相、社会問題も盛り込まれている。当然そこに大震災、原発のことも入っている。テレビなどで語られること、様々な人の様子を一種醒めたような目で観察しているのが印象深い。「父親から教えられたほとんど唯一のこと」と記した一文が重い。

 「現場、現物、現実を元にした思考はときに視野狭窄に陥るが、現場感覚と摺り合わせできない客観性など糞の役にも立たない」

 これは医療や介護など厳しい現実を突きつけられる人たちの多くが持ち合わせているのではないか。しかしまた同時にどんな仕事や生活にあっても見過ごしてはいけない芯でもある。解説の関川夏央が、著者の「介護の動機」について「義務感」と「人の道」と説きながら、次のように結論付けたことに胸を打たれた。

 「しかし、義務を淡々とこなして生活と人生を律する態度は、その動機の散文性と継続力によって、たしかに『愛』より信頼するに足るのである」

もう誰も言わないズボン下と

2018年02月06日 | 雑記帳


 先週の寒さで思い出したのが「秋田の男子高校生コート問題」。一昨年テレビの情報番組やバラエティで取り上げられたので、覚えている方も多いだろう。自分も「横並びと我慢と消費」と題して書き散らした。この寒さでもそこは変わらないのだろうか。そう言えば、と中学や高校の頃の「ズボン下」のことが浮かぶ。


 70年前後に中高生だった男子はきっと「ズボン下」を履く履かないで葛藤があったのではないか。カッコウつけたいお年頃、年寄りの「モモヒキ」のイメージがあるので、そんなダサいことはしたくないし、家の者からは着るようにいわれるし、実際の温かさは断然違うし…。いつまで履かなかったか、記憶にない。


 先日、糸井重里が「昔の男は、寒い冬にはモモヒキを履いていた。男のこどもも履いていた」と書き出し、昔の暖房状況に触れながらその普通さを語っていた。しかしある「事件」によって履くのを止めた。それは、当時「小悪魔」と呼ばれた加賀まりこの一言であった。「わたし、ハゲとモモヒキ履いてる人が嫌い


 そんな風潮が広まっていった時代、加賀まりこでない身近な小悪魔(笑)もそう思っていたりしたら…と全国各地(特に寒い地方)に伝染したのだろう。むろん現在はヒートテック等の開発によりアンダー〇〇、インナーという呼び名になり、内に着込むにはさほど抵抗ないはず。その有難みは中高年になれば身に染みる。


 年寄じみた話になった。ところで私世代は「ズボン下」または「下ズボン」と呼んでいたが、もはやズボンさえ死語になっている。辞書には「jupon(フランス)」と載っているのにパンツ、スラックスという英米語に凌駕されている。モモヒキもステテコのようにユニクロが言い出せば、一般的な呼称になるか。無理か。

立春大吉、カミサマ信じて

2018年02月05日 | 雑記帳

(20180205 新政・立春朝絞り)

 「立春大吉」今年も新しい年が始まった。お札代わりに、毎年知人から届けていただくこの日限定の「立春朝絞り」に手を合わせる。謹賀新年より立春大吉の方が、どこかすっきりしているのは字画の印象だけでなく、「春」近し(実際はまだまだだが)という気持ちを強く感ずるからだ。言霊は常にあると信じよう。


 先週末にNHKで放送された「ものほん~ウワサの東北見聞録」という番組をみた。今まで自分が知らなかった奇祭、奇習などが登場し、少し驚いた。気候や地勢などによって独特の風土を持つ東北の村々の特殊性を考えさせられた。それらとは少し異なるが、壇蜜がリポートした津軽の「カミサマ」も面白かった。


 「カミサマ」とはなんとなく「イタコ」に近いが、区別があるらしい。改めて検索して調べたら、詳しいことが分かった。正式名?は「憑依巫女」。それは青森の津軽だけでなく、近隣の他県にも分布しているのではないか。現に私は幼い頃からよく祖母たちが「カミサマ」と口にし、出向いていたことを覚えている。


 病気や妊娠、縁談等そうした事に対する頼みではなかったろうか。「ドコドコのカミサマは…」と言っていたから、きっと訪ねられる範囲に複数いたことだ。今はそうした話を聞くことがなくなった。しかし仕事としていなくとも、霊感の強い人はいるだろう。自分からそんなことを語る人は、眉唾という気もするが…。


 そういえば、ある山間の学校で「霊が見える」と密かに教えてくれた子がいた。真面目で優秀な女児で大っぴらに喧伝するタイプでなかっただけに妙に印象深い。ある時「先生を守ってくれている霊は…」と唐突に言われて驚いた記憶がある。大変いい霊が見守ってくれているそうだ。立春大吉。いいことを思い出した。

毎日「贈り物」は届けられて

2018年02月04日 | 読書


2018読了12
 『待場のメディア論』(内田樹 光文社新書)


 2010年発刊なので新書としては賞味期限切れと言われるかもしれない。しかしそうはならない所がウチダ本の魅力だ。これはおそらく著者が「『贈与と返礼』の人類学的地平」にぶれずに立ち続けているからだ。常に本質を問う人は、目前の事象がどんなに流動的であっても、その底に淀む、潜む存在から目を離さない。


 この本のテーマはマスメディア、つまりテレビ、新聞、出版界の現状と展望が主になっているが、第一講として語られたのは「キャリア教育」。この10年、行政主導の「自己決定・自己責任」を目指した動きはずいぶん活発だった。しかし、その限界は目に見えてきて久しい。そもそも目標の設定が違うと語っている。


 「与えられた条件のもとで最高のパフォーマンスを発揮するように、自分自身の潜在能力を選択的に開花させること。それがキャリア教育のめざす目標だ」と言い切る。それは盛んに自己アピールする力ではない。他から必要とされ、また自分が必要になった時に「発動」する力の育成といってもいい。筋道が異なる。


 その観点からマスメディアに対する分析・批判もなされている。個々の例は頷くばかりであった。視聴率も部数も著作権も、何のためかと深く問われた時、いかに自分たちが市場経済によって毒されているかが理解できる。「人間性」という言葉をこんなふうに解した文章は初めて見た。ずっと心のなかに残る気がする。

 「何かを見たとき、根拠もなしに『これは私宛ての贈り物だ』と宣言できる能力のことを『人間性』と呼んでもいい」

 その「能力」は、競争や賞罰や適性探しが繰り返される場では培うことができない。他者と向き合い、頼み頼まれあうような関係性の中で育まれるだろう。「贈り物」はメディアを通じて届けられる場合もある。しかしビジネス思考では、それに気づくことは困難である。メディアのあり方の起点を忘れてはいけない。

独り視聴者委員会~節分

2018年02月03日 | 雑記帳

放春花(boke)3

 正月に『紅白』『相棒』のことに触れたが、このタイトルで書き出すのは今年初だ。相変わらずニュースとドラマが中心視聴だが、どうにも全体的にマンネリ気味のような気がする。そこで視点を変えてお薦めしたいいくつかを…。今までほとんど見ていなかった『ダーウィンが来た!新生き物伝説』を二ヶ月見続けた。


 生き物が好き、苦手いずれであっても、見始めたらこの番組はなかなかハマる。北極圏に住む「白いオオカミ」、狩りの姿が凄いとしか言いようがない「アオアシカツオドリ」などは迫力満点だった。また「ヒラメとカレイ」の違いといった、かなりトリビア(懐かしい)的な内容までバラエティに富んでいて飽きない。


 どの回にも共通して感じるのは「生」の奥深さということ、子孫を残すための形はあまりに違うけれど、そこに賭ける生き様は、人間サマがいつもちっぽけに見える。「命」の多様さに考えが深くなる気がする。もう一つ、よくこんな取材、撮影ができるものだと、改めて人間の技術、ねばり強さにも感服することが多い。


 俗悪番組?とされるだろう『月曜から夜ふかし』を見ている。マツコが仕切る番組は、どうしても似たニオイがするが、秀逸なのはVTRにつけられるアナウンスのオチのつけ方だ。くだらない事実であっても俯瞰的な視点によって、位置づけや評価が念押しされ「ワライモノ」になる。者を物に変化させているようだ。


 やはりドラマにも触れておこう。今、印象的に思えるのは『anone』だろうか。坂元裕二脚本らしいカラーが出ている。『BG 身辺警護人』は齢相応といってもやはりキムタク中心で、他の主役級の絡みが今一つ迫力に欠ける。『西郷どん』は頑張っている役、そうでない役の落差が見えるような。フジTVは全然駄目だな。

観測データ、体のデータ

2018年02月02日 | 雑記帳
 晴れ、低温の天気予報がばっちりと当たった朝となった。除雪車が出なかったので久しぶりに余裕がある。着込んで外に出てみると、西の空には月がぽっかりと浮かんでいる。そして東はもうすぐ陽の昇る気配、見事なグラデーションカラーだ。一年に何度もない景色、除雪車が押し上げた雪山の上でパチリと撮った。


(20180202 am6:23 零下17℃くらい)

 それにしても寒い。今冬の低温はちょっと珍しい。勤めていた頃は話のネタ探しとして、よく気象庁データのサイトにアクセスしたものである。「気温」を検索して入ってみたら、なんと隣市の湯沢-18.6℃、横手-16.4℃だ。「観測史上最低」という赤文字が踊っている。観測開始は70年代だったはず。まさに記録的だ。


 ちなみに、我が羽後町では積雪量状況という形で、町内三か所のデータを公開している。現在の積雪量は去年の約2倍である。ここ2年ほどあまり積もらなかったから多く感じる。262㎝は結構な量だなと思い、遡ってみたら最高値は25年2月26日の296㎝。やはり2月中旬以降か。こればかりは、天の思し召し。


 雪は堅いが、そろそろ車庫は二回目だなと少し重い腰を上げた。見た目は一回目の高さと変わらない。しかしびっちり身が詰まっている。やっているうちに雪がギシギシとなんだか懐かしい声を出す。ああいい音、と耳が喜ぶ。身体は疲れているがスコップの動作もリズミックになってくる。その単純さに微笑む。

特集報告「あきずにあずき」

2018年02月01日 | 雑記帳
 今年の年賀状に「あきずにあずき」という意味不明の文を書き散らした。

 しかし、年頭の言葉として当然「決意」はあるわけで、と言っても文章通り今年も小豆を炊いていきますよ、ということである。

 壱月は、いわゆる「小豆煮」を三度ほど作った。
 もちろん、甘味抑え目なのでストレートが美味しい。

 ただ、様々なものとの組み合わせができることも、小豆のよさだ。
 栗、カボチャ、葛きりなど、和の定番といっていいだろう。

 しかしこの時期(いや、どの時期でも)ベストと言っていいマッチングは、抹茶風味のものだろう。抹茶カステラなどは抜群に良い。
 さらに言えば、抹茶アイスである。
 これはマイランクとして最上位に位置するのではないか。

 思いついてもう一つ、冷凍庫を覗いたらそこに見えたアイスがあったので、試してみた。

 これです。

雪見大福on小豆
 これは、これは、という味になりました。

 小豆は栄養価も高く、結構な薬効もあるとか。

 また「赤」色が、縁起のよさも引き寄せます。

 ぜひ、皆様も「あきずにあずき」を。