すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

真のエリート、機能せよ

2019年06月19日 | 読書
 佐藤優はかつて、日本に三つのエリートがいると語った。「旧来のエリート」「偶然のエリート」そして「未来のエリート」。当然、三番目が佐藤の期待する真のエリート候補である。この文庫の副題は「未来のエリートとの対話」。相手は灘高校の生徒たちだ。偏差値で言えば0.1%の上位群に位置する頭脳の持ち主である。


2019読了61
 『君たちが知っておくべきこと』(佐藤 優   新潮文庫)



 単行本は三年前発刊で、国のトランプ政権ができる前ではあるが、中東情勢や我が国を巡る外交上の諸問題については、そのまま筋が通っている印象がある。世界の構造を認識するポイントはそう動くものではないと分かる。この国の政治や社会の見方についても、視点のはっきりした構造が示されていて面白かった。


 現在の政界トップが真のエリートでないことを我々は知っている。佐藤は露骨な表現でこう語る。「今の総理大臣と官房長官は、通っていた学校の偏差値で言ったら50台前半くらいの人たちだ」そして「エリートによる国家の運営と、いわゆる民主主義的な選挙制度が、必ずしもうまくかみ合わない」と問題視する。


 現首相の特徴を「反知性主義」「決断主義」(実証性や客観性を無視して、とにかく決められる政治が強い政治なんだ、という発想)と称した鋭さにも納得する。そういう中で行われようとしている憲法改正、イージスアショア等の問題の本質が見えてくる。対抗できる論理力を「未来のエリート」たちに期待しているが…。


 エリートの多くが進む官僚の現状分析も確かだ。「官僚はまず結論を決めておいて、それに合うように都合のいいデータをパッチワークしていく」。まさに今、本県で取り沙汰されている問題にも符合するが、データ処理等あまりに情けない有様に、真のエリートが機能していない現状を想うのは私だけではないだろう。

ことばは頼りないから役に立つ

2019年06月18日 | 読書
 齢をとるにつれ注意して暮らすことは増えるが、多くの人が言う事の一つに「つまずかない」ことが挙げられる。骨折したりして寝たきりになると様々な支障が出る。治りにくい。些細だけれど、自分も気をつけねばと思う。思うけれども時々危ない瞬間がある。その頻度はきっと増えていく…とこれは下半身の話だが。


2019読了60
 『つまずきやすい日本語』(飯間浩明  NHK出版)



 ことばにつまずくとはどういうことか。ある程度予想できる。ただ書名にした著者の思いは「はじめに」の副題によく表れている。それは「『間違いやすい日本語』ではない」。一時期、日本語ブームの中で「間違いやすい」を冠した書もよく売れた。今も雑学的な番組等でそんな話題が取り上げられることも少なくない。


 それに対して著者はこう述べている。「あらゆることばが、ある場合には正しく、ある場合には間違いになってしまうという、その難しさを考えていきたい」。この姿勢に共感できる。かく言う私も現実には「その使い方は間違っている。正しくは…」と言いがちである。その指摘の持つ意味を時々考えてしまうことがある。


 「変化はことばの本質」と考察することから論は始まる。「つまずき」つまり、使った言葉がうまく伝わらず誤解を生むような理由は数々あるが、ことばの成り立ちや歴史を考えれば、当然起こり得る。「時間」「場所・場面」と章分けしながら、例示される。それらを乗り越え積み重ねて、今の言葉遣いが存在している。


 「ことばは頼りないから役に立つ」という逆説的な提示に心が響いた。ことばの持つ幅や曖昧さがあるおかげで、どれほど助かっているだろうか。真実をずばりと射るばかりでは息苦しい。つまずかないようにしたいが、つまずいたら起き上がればいい。誠意を持ってことばを尽くせばいい。それだけのことである。

梅雨寒の読書メモ

2019年06月17日 | 読書
 先月から好天が続いていたので、ほんの少しだけ梅雨入りを待つような気持ちが芽生えた。データとしては「ようやく」は当てはまらないだろうが、いよいよ雨の季節になる。のっけから「梅雨寒」か。しかし有難がっている畑の作物はある。読書もどちらかと言えば雨音が聞こえると、心に沁みてくる気もするが…。


2019読了58
 『もらい泣き』(冲方 丁 集英社)


 これは文庫で読んだような…と思いつつ、単行本の古本を買ってみた。この作家、確かに「天地明察」は傑作だったが、語り手としてはどうなのか。以前読んだ時より、仕立てが甘いような印象を受けた。読者にもらい泣きをさせられないようじゃ、と勝手な評価をする。ただ、今回もなかなかいいフレーズはあった。


 親友の仕事と死を取り上げた『仁義の人』というストーリーの中の一節…「根回しは、まず自分から。自分自身に『仁義をきる』。それができない限り、本当に人に喜んでもらえる仕事はできないんだなって」。それから、公募された読者の文章もよかった。文庫には載っていない。特に「お菓子と募金箱」がぐっときた。



2019読了59
 『夜を乗り越える』(又吉直樹 小学館よしもと新書)



 かの芥川賞作家による読書礼賛と読書案内の本。しかし、普通の作家稼業の人が書くのとは一線を画している。生い立ちや学校時代のエピソードはよくあるにしても、お笑いを仕事にするなかで、常に手元に文学を置きながら醒めた目で自分を見つめている。メディアへの露出も多いが、かなり素に近い印象をうける。


 万事スピード化、経済化の中で、筆者の持つ観点の強さは際立つ。例えば「十年くらい人生を棒に振ったら、『人生十年棒に振った』という武器を手にすることができます」。これは何か(筆者なら読書)を糧に自分を見つけたからこそ言える。この新書の結論はこうだ。「本の中に答えはない。答えは自分の中にしかない。

続ドック記~苦手な胃カメラに救われる

2019年06月16日 | 雑記帳
 何度も目覚め、結局4時間ぐらいは眠っただろうか。シャワーを浴びて7時30分BS枠で「なつぞら」を見る。ようやくアニメーター試験に合格した主人を見習い、やる気を持って臨まねば…。苦手な胃カメラが待っている。どのくらい苦手か…ふと昔書いた拙文を思い出したので、探して再録してみる。2001年だ。

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10月21日「身」

 二年ぶりの人間ドッグ入り。なんとか無事に帰還?することができたが各種の不安要素はそのままだった。年頭の誓いの一つに「健康」のことが入るようになって久しいが、相変わらずの生活を続けていては改善がみられるわけはない。しかし、今度こそ…(と思うが、どうなることやら)。

 それはそうと、人間ドッグの二大難関。つまり、胃カメラと大腸ファイバーだが、今回は胃カメラが特に厳しかった。

 検査室に入ると、まず看護婦に「はい、左の方を向いて寝てください」と言われたので、その通り左を向くと、「左でしょ、左」とまた声をかけられる。
 私から見ても、看護婦から見ても「左」は同じはずなのにどうして違う方を指すのか。もしかしたら、いつもは反対の向きに立っているので、それで勘違いしたんだろう…と、ここは皮肉などをいわず、寛容な患者さんになりきることとする。

 おとなしく左の方(実は右)を向いて横になると、医者の登場。
 おっとカメラのついている黒い管状のものが目の前ではないか。医者は立ってカメラを差し込むので、まっすぐ口の中に向かってその黒い棒が突き刺さってくる感じ。思わず目を閉じる。

「目を閉じないでください。体が堅くなりますよ。」と看護婦の声。
 そんなこと言ったって、この位置どりはあまりにまずいんではないの。
 視線をそらし、薬の箱に書いてある字など読もうとする。
              
「アスピ…、アスペシ…」
 しかし、どうしても目にうつる黒い管が気になる。
 うっ、気持ち悪い。目を閉じそうになる。

「目を閉じないで…。」
 わかりました、わかりました。
 うっ、また来た。

「体を楽にして。空気を入れますよ。苦しかったら言ってください。」
 どうやって言えばいいの。目で合図したくなるが、またぐいぐいと肉体に入り込んでくる黒い物体。こらえきれずにまばたきしても、その度に繰り返される

「目を閉じないでください、目を閉じないで」…。
 
 涙目の患者さんが見えないの。
 相手の身になるということは、どういうことなのか。おいっ!

「はい、目を閉じないで」

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 かなり以前に書いた文章を読みながら、検査のやり方も結構改善されてきたなと思った。自分自身の慣れはあるにせよ、ケアする側の進歩は大きい。さて、検査に入る前の準備(麻酔等)のために入った場所で、なかなかいいポスターを見かけた。「胃はエンジン」というキャッチコピーが大きく目立つ。おっと思う。


 つまり、車のエンジンのように、燃料を入れて人の体を動かすもとになっている器官という役割を表わす他に、調子のいいときに点検しておこうという意味合いが強いようだ。他の箇所についても言えるけれど、感覚として意識しやすい臓器なので、この比喩はぐっとくる。さあ、今年のエンジン点検はどうなのか。


 検査台に抱き枕はあるし、「目を閉じないで」ではなく「遠くを見て」に言葉は変わっている。看護士は始終背中をさすってくれる。辛い部分もあるが結構楽に終了した。何より検査後、医師から掛けられた一言が嬉しい。「キレイな胃でしたね」…なんと私のエンジンはキレイなのだ。諸データは悪いが(笑)救われた。

ドック記~こんな夜更けに「なつぞら」かよ

2019年06月15日 | 雑記帳
 二年ぶりの人間ドック。秋田市の某病院である。何度も通った場所なので裏道も知っているから、順調に受付開始15分前に到着した。思ったほど混んではいなくて、検査は順調に進んだ。難儀な大腸内視鏡検査準備つまりは下剤飲用と腸内浄化も今までにないほど早く済み、11時前にはスタンバイとなったのだが…。


 なかなか検査室からのお呼びがかからない。もちろん、同じ検査をうける他の方々も同様。今までの例だといくら遅くとも12時台には検査室前に移動していた気がするが13時が過ぎ、14時が過ぎ…なんと16時が過ぎ、ようやく17時になって「お待たせしました」というナースコールとなった。6時間待機である。


 いくら温厚で辛抱強い私(笑)でも、さすがに皮肉の一つも言いたくなったが、日勤の看護士さんから「記録ですね」と名誉な一言をいただき、ぐっとこらえる。当然働いている医師も技師もいるわけで、ここで「受診者ファースト」などと口にするのは大人げないだろう。愚痴を心の中にしまい込んで、検査台へ上る。


 検査そのものは順調に進む。終了は結局18時を過ぎ、人の姿を見かけない内視鏡室の並ぶ廊下を通り控室へもどる。その後、部屋に帰り、時間を置いてからの夕食が今日初めての食事となった。食堂は閉められるので、運んでもらってある。しかし、もはや空腹かどうかの感覚もない。しかも明朝は胃カメラである。


 取りあえず食事・入浴を済ませベッドに入るが、どうにも落ち着かない。いつもなら22時ぐっすりなのに、おそらく「朝ドラ」視聴史上初めて「夜なつぞら」を23時30分BS枠で観ることになった。考えてみれば、朝食後に見ているドラマだから、一日スタートの目印だ。終わったから、ああ今日はあと15分だ。

あなたは『セミ』を読みましたか

2019年06月12日 | 読書
 話題の『セミ』(ショーン・タン 岸本佐知子・訳 河出書房新社)を読んだ。こうした類の絵本を買うのは初めてなのかもしれない。どうしても言葉を追ってしまう自分を感じつつも、クライマックスと言えるページを開いた驚きは、さすがに様々な人が称賛する作家だと思った。岸本のリズミックな訳も洒落ている。


 単に人間社会の風刺と表してよいものか。今まで聞いたことのない作家だったけれど、興味が湧いて代表作と言われる『アライバル』という絵本も買ってみた。この絵本は、まさに「文字のない本」である。絵だけで構成していく話は幼児用で見た気はするが大人向けとしては記憶がない。しかも128ページである。


 内容は移民者の物語。題名のarrivalの意味は「到着、出現、到来、新顔、新参者、赤ん坊」である。今まで住んでいた土地を離れ、新しい場所での生活を作りあげていく過程が緻密な絵で表現される。帯にある翻訳家岸本佐知子の言葉が痛快で、的を得ている。「翻訳したくて、翻訳できなくて、地団駄をふみました。


 いったい「読む」とは何だろう、と改めて考えざるを得ない。表現する意味を問いかけたくなるのは、異質なものや慣れないものとの出逢いが喚起するからだろう。文化の異なる国に生まれ住む作家ゆえに、どれほど理解できたか自信はないが、それでも伝わってくる情感や思想は確かにあった。本の世界が広がった。

大人の資格を持つために

2019年06月11日 | 読書
 冠婚葬祭とは「元服」「結婚」「葬式」「祭祀」を表わす。今は一般に慶弔の儀式事という意味だ。ここ三十年ぐらいで圧倒的に変わったのは、婚が減って葬が増えたということだ。だから結構な数の「葬」に列席するのだが、今もって慣れない点も多い。しかし、この頃改めて形式より心だとつくづく思うようになった。


2019読了57
 『冠婚葬祭心得』(谷沢永一 新潮文庫)



 一般によく出回っている指南書の類とは異なる。「心得」と記された訳はまえがきに記されている。「作法という形式に含まれている人間の気持ちとはどういうものか、それがこの本の主題です」。端的にいえば、いかにすれば気持ちが伝わるか、伝え方による人の受け止め方の考察となろうか。エッセー風で読みやすい。


 章立ても「葬儀」「婚儀」「人生の節目」の他に「交際」「贈答」「会合」と続く。二十年前以上の本なので、若干時流に即さない面も感じるが、本質はそう変わらない。例えば葬儀を取り仕切る側の心得として、ずばりこう言い切っている。「葬儀の哲学、それは、万事控え目である」。そこには現実を冷徹に見る目がある。


 巻末に「オトナのエッセー」と題された解説を作家田辺聖子(合掌)が書いている。取り上げられた箇所が、自分が心に残った部分とおおかた似ていることにびっくりした。例えば僧侶のさずける「戒名」についての批判。例えば銀婚式の夫婦を「離婚しなかったという業績」と褒め称えるユーモア。確かにネタ本でもある。


 「若くして異例の成功を収め、世間に取り沙汰されるようになったときは、同窓会を欠席して顔を見せず、会の雰囲気を損なわぬ心得も必要であろう」という一節がある。そこまでの人物になれるかどうかは別にして、ここにある心配りは、人づきあいの肝と言える。冠婚葬祭には「オトナ」の資格が見え隠れする。

マイフレンズ(笑)に訊いてみた

2019年06月10日 | 雑記帳
 電子辞書愛好者であることは何度も書いた気がする。自宅、職場、バッグと常時3台稼働させている。これらのマイフレンズに訊いてみたい語に今日も出会った。「室礼」…地元新聞の広告誌に載っていた。「しつらい」と読み、意味も「感謝、祈願、もてなしの心を物に寄せて思いを形に表すこと」と記されている。


 「しつらえる」という語はわかる。だから「しつらえ」だと思っていたが「しつらい」か。ここでフレンズの出番。「しつらい」の見出し語としては「設い」が載っていて「室礼」は当て字とされている。ただ歴史大事典にはその漢字が載っており、平安時代には「調度品による室内の仕切り」を表わしていたようだ。


 「」という漢字を使い「しつらう」意味にしたことは、全体的な気配りをする我が国のイメージが湧いてくる。さて、昨日地元が一つの舞台となっているドキュメンタリーの上映会があり参加した。鎌鼬美術館と関わり、当然モチーフの一つに「舞踏」があるわけだが、映画や話を聞いて改めてこの語が気になった。


 広辞苑によれば、「①舞踊(ぶよう)。主に明治時代、ダンスの訳語として用いられる。現在は前衛舞踊などで使用」とある。確かに舞踏会という語は歴史的な響きで捉えられ、現在は普通の踊りの場を、舞踏と呼ぶ者はいないだろう。広辞苑には「手の『舞』と足の『踏』とを合わせた語」と成り立ちも記されている。


 とすると、他の踊りと比して強調されるのは「」。つまり足である。西洋のダンスに象徴されるのは、伸びやかな自由への憧れが強いような気がする。しかし日本やアジア諸国の踊りに頻繁に感じられる、一種の土地信仰、自然崇拝はやはり足の飛翔にはそぐわない。「踏」という祈祷や呪縛の証しなのかもしれない。

「つけおの」のあった食卓

2019年06月09日 | 雑記帳
 男鹿の人星亭喜楽駄朗さんのFBで秋田弁が取り上げられ「がっこだけは全県一区だろう」とあったので、珍しくコメント記入をした。それは自分が幼い頃は「がっこ」なんて話したことも聞いたこともなかったからだ。私より世代が上の同地域の方も同様の声を寄せていた。この周辺では「つけおの」と言っていた。


 『秋田のことば』では「がっこ」は確かに全県分布しているように記載されている。しかしその一つ上に記載されているのは「ちけおの」だった。分布は由利・平鹿・雄勝である。主に県南ということだ。がっこは、現在「いぶりがっこ」で一躍全国区になっているし、単に「も→お」というよりは耳に残りやすい。


 同じページに「汁(味噌汁)」のことが載っている。広く県内に広まっているのは「おじげ」のようである。これは聞いたことがあるし、どちらかというとやや改まった時に、祖母らが「おじげっこ」と口にしたように記憶している。「おつけ」は全国分布しているし、「おみおつけ」という語も大人になってから知った。


 味噌汁は、ふだん私たちが使うのは「おしろっこ」だった。これは「お汁」に「こ」がついたと簡単にわかる。気取って「おつゆ」なんて言い方をした頃もある。その名残が「ちおこ」か。やや幼児語的な扱いだ。それにしても、旬のもの以外は味噌汁をあまりとらなくなったし、漬け物だって味同様薄くなっている。


 健康面からみたら、減塩ということで望ましいのだろう。けれど、一汁一菜という語のシンプルさを妙に懐かしく思うのは私だけではないはずだ。夏が近づくにつれ、食卓はきゅうりとなすによって占められていて、時々出てくるトマトなどは酸っぱくて砂糖をかけたりして食べた。「つけおの」はいつもそこにあった。

猫と名前と想像力と

2019年06月08日 | 読書
 猫の小説と言えばかの夏目漱石となるが、吉本隆明は「吾輩は…」の猫について「移動する視点。」といったような言い方をしていた。猫、犬どちらも苦手な自分が、小説に登場させるならやはり猫という気がするし、取り上げた作品も案外多いようだ。犬より複雑な思考をすると言ったら、犬好きには叱られるかな。


2019読了56
 『猫が見ていた』(湊かなえ 有栖川有栖、他 文春文庫)



 7人の作家によるアンソロジー。たまにこうした文庫を買うのは、未読の作家がいるので(今回は3人)短編で良さを発見できれば、という期待を持っているからだ。結果、そんなに特徴的な文体は見いだせなかったというのが正直なところ。湊かなえの「マロンの話」という作家の苦労話(笑)が一番面白かった。


 北村薫はさすが手練れだと感じた。なんせ題名がいい。「『100万回生きたねこは絶望の書か』。これだけで惹かれる。そこで語られる読書論もストレートだ。曰く「本は一冊でも、読みは読んだ人の数だけある。それが本の値打ちだ。」。井上荒野の作品も「らしい」描き方だ。人間の「気分」の脆弱さをみせつけてくれる。


 東山彰良の作品はやはり?舞台が台湾だが、刺青屋が取り上げられ、今までその入れる意味を考えたことがなかったので、少し納得した。それにしても白猫を黒猫にできる刺青もあるようだ。何事にも染まらないための黒だ。「黒い白猫」という題名が象徴的だ。しかし相変わらず台湾の人名は覚えにくく、読みづらい。


 この文庫の後に手にした、とある警察小説、途中でどうもしっくりこなくて読了しなかったが、前半猫が登場する場面にとても面白い一節を発見した。ある作家の言葉と記されていた。「その人の想像力が高いか低いかは、猫に命名する能力で知れる」…試されたい。誰か私を名付け親にしてくれないか。飼わないけど(笑)