すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「半分死んでる」自分に気づく

2020年01月21日 | 読書
 【半分生きて、半分死んでいる】(養老孟司 PHP新書)

 ちょっと変わった書名は、著者がもう既に亡くなっている人物だと誤解している若者がいたエピソードがもとになっている。「まあ、別にそれでもいいわけで」と語るところが、いかにも養老センセイたる所以か。しかしよく考えると、私達にも「半分死んでいる」ような事実があることに気づく。例えば、こんな時に…。


 地元の役所等で何か手続する場合、担当がよく見知っている方であっても、証明する免許証、保険証等を求められる。それがなければ手続きできないという事態の意味は理解するが、結局のところ自分の肉体や精神は二の次である。本人→姓名→番号のように処理が進む構造の中で、半分死んでいるという想いも湧く。


 「政治が嫌い」「言葉が嫌い」な養老センセイだからこそ、ズバリと書けることがある。この指摘は熟考に値しないか。

結局、具体的なもので人は生きる。具体的とはどういうことか。感覚から入ることである。ただし現在は情報化社会で、情報も感覚から入力されるが、ただちに「意味に変換されてしまう」。そこが問題だと、お気付きだろうか。


 「意味に変換」することに重きを置いてきた自分だからこそ、胸を衝かれる思いがする。情報として処理することの有用性を推し進めてきたことによって、その部分にしか目がいかなくなった。情報として扱われる内容が個人を指し、それ以外は「ノイズ」である捉え方だ。生きていると言えるのはいったいどちらか。


 結論!「自分の好きなことにどう向き合うか」である。言葉を信用していない著者からみれば、言葉が好きなことの一つである自分には、非常に重い問いだ。吐き出す言葉がうす汚れていると気づくことは始終あって、それでも窒息しないのは、どこかで浄化されているからか。「生きている半分」は決して手放さないぞ。

胸に手を当てる大寒

2020年01月20日 | 雑記帳
 休館日。目覚めた後、午後の読み聞かせのために下読みをする。「朝読み」である。昨日のサークルの初読み会では時間が限られていたので、半分しか進めなかった。18分はかかる大作?なので、準備をいくらしても満足いかない。今日も見切り発車か。それはそれでいいのだと思うようにもなっている。いい傾向だろうか。


 午前、まだ雪が降りださないようなので、孫を連れてアルカディアへ。雪は少ないはず。案の定12月には入れなかった駐車場は0cm。遊具はさすがに使えないが、まばらな雪の中を動き回ることは出来た。ただし風は強い。それでも滑り台の下に溜まっている泥水で、嬉しそうに遊ぶところを眺めた至福のひと時を過ごす。



 午後、地元の小学校へ。『リンドバーグ ~空飛ぶネズミの大冒険』を読む。正月読了で、最も気に入った話だ。高学年が最適だろうが、今日の割り当ての3年生でもイケるはずと選んだ。聞いている姿から見取れば8割程度だったろうか。今年度最も難易度が高かった一冊。読むにはいいが、目や手の負担が重い(笑)のだ。


 「寒中見舞い」が一枚届く。立春までは寒と言えるが「寒中」とは小寒から今日までの二週間だ。そう言えば今年は「来年から挨拶を失礼する」旨を記した賀状が2枚来た。流行りの終活なのか。さらに、裏面印刷が途切れた1枚、差出人名がない1枚…皆落ち着きがない。自分は大丈夫だったか、と胸に手を当てる。

片々を引き出して

2020年01月19日 | 読書
 年始め作業として、遅ればせながらメモ帳の整理をする。
 他者から聴いたこと、自分が思いついたことと様々なれど、書き殴ったまま捨ててしまうに惜しい気がする片々を、キニナルキ番外篇としていくつか挙げておく。


 「図書館で問題を解決しませんか。図書館であなたの問題の解決の糸口を探しませんか。」

 仕事上、この発想は新鮮に思えた。今、もっとも考えていることかもしれない。
 そんなふうに考えて足を運んでもらえば、最高だ。


 「誰が、いつ、何を読んでいるかは、最高のプライバシーだ。」

 最初は意外に思えたこの一言だったが、重みを感ずる。
 公的機関としての責任を胸に刻んだフレーズである。


 「植物を丈夫にたくましく育てるには、風が必要だ。」

 成長のための三要素があれば育つには育つ。
 しかし、本当に自らの力が引き出されるためにはストレスがなければ出来ない。
 見事に教育の本質をついている。


 「本の面白さを伝えるための二つのこと。読んで面白いと思った箇所、そして面白いと感じた自分自身」

 面白さには少なくとも二段階あるのだということ。
 自分自身を掘り下げていく方が、ずっと面白い。


 「potential」

 そう、ポテンシャル。
 引き出したいのは、それだ。

1月17日が遠かったあの日

2020年01月18日 | 雑記帳
 昨年末に雑駁な平成回顧録を記したのは、元号が約30年間だったという理由もあった。1月17日の朝は、25年つまり四半世紀ということが頭に残った。25年前のあの日、ずいぶん遠い話なのだが、それは歳月より自分という一個の人間の感覚、見識の小ささと言える。


 あの年1月17日は、三学期始業式。朝起きてTVをつけると神戸や大阪の方で大きな地震が起きて、被害が出ているという報道が盛んになされていた。驚きはしたが、正直それより学期スタートへ向けての支度が大きく頭を占めていた。そんな自分を不思議とも感じなかった。


 具体的なことは思い出せない。式でその事が触れられたのか、職場で話題になったりしたのか、皆そんな意識も余裕もなかった気がする。その日職員で仕事始めの小宴を持った。前年夏に不慮の出来事があり催しを自粛してきており、年明けを期して杯を重ねたのだった。


 地元在住の私は、赴任した校長を二次会と称し「この地へ来たら、ここは知っていてほしい」と酔いにまかせて、古く狭い一杯飲み屋に誘った。そのカウンター越しに見たTV画面が忘れられない。もうかなり遅い時間帯だった。中継で空から神戸の街が映し出されていた。


 「えっ、まだ燃えているの」…随分能天気な一言を吐いたが、しばらく画面から目が離せなかった。その後何を話し、どうしたか記憶はない。ただ、妙にそこだけ鮮明に覚えているのは、こんな向き合い方をしている自分が情けなかったからか。95年はそんなふうに始まった。


 思い出したら、少し94年からの学校4年間を紐解いてみたくなった。ぼちぼちと考えつつ書いていこう。

余計なものを遠ざける

2020年01月17日 | 読書
 最近あまり使わなくなったけれど、「癒し系」という語があった。
 「彼女は癒し系だよなあ」と言ったあとに、パロディっぽく「こちらはイヤラシ系か」というギャグをいうのも定番だった。


 さて、久しぶりに、いがらしみきおの新書(漫画)を読む。タイトルは【癒されたい日のぼのぼの】だ。
 八コマベースの絵は、まさしく「いがらしワールド」で、わかるようなわからないような、ためになるようなならないような、時間の無駄なようなそれでいいような感じだ。



 巻末に、いがらしの「癒されたい日」という詩がある。
 こんな書き出しだ。


 癒されるって どうやって癒されるんだろう

 誰かに慰めてもらう
 誰かに撫でてもらう
 誰かに抱きしめてもらう

 それで癒される?
 そうじゃなくてもっとちがう癒され方はないのかな



 昨日は「努力しない生き方」を考えて、働きかける、工夫すると書いたが、そう能動的にならなくとも、ぼやーっとしていられる時間を大切にしたいものだ。

 人が癒されたいのは、悩みや傷があるから。
 解消までたどり着かなくとも、ひと時忘れるような感覚が欲しいのだ思う。


 この漫画では「第六章 花鳥風月はおもしろい」が典型的だろう。

 人の手出しが極力ないものがごくふつうに存在して、移り変わっていくようすを共に過ごしていくような感覚を持つことによって、心は本来の姿を取り戻せるのではないか。

 それを解説の呉智英は、こんなふうに書いた。

 「それがそのままそのようにあること

 人工物にあふれる社会の中にいると、人も自然の一部であることを忘れがちになる。

 自然になるひと時…余計なものを遠ざけなければならない。

生き方の工夫のポイントは…

2020年01月16日 | 読書
 【努力しない生き方】(桜井章一 集英社新書)

 こうした「~~しない」という表現は、今のストレスフルな社会において、一種の救いになるのか、ずいぶん書籍として出回っているように思う。たくさん読んでいるわけではないが、それらに共通するのは、おそらく「~~する」「~~したがる」行為や心理の省察だろう。そして、誰しも思い当たる自分を感じる。


 能力を高めたい、他人より秀でた存在でありたい…それ自身はごく自然なことだ。従ってそれを「否定しない」こともまた大切で、その次の、ではどうするか、という段階が問題だ。普通は「努力する」「頑張る」「求める」だろう。しかし、これらの「足し算的行為」では必ず行き詰まるというのが筆者の考えである。


 もちろん、単に「しない」だけの引き算的な生き方を主張しているわけではない。言うなれば、「努力を工夫にかえる」発想なのである。工夫の方向は、力を抜く、楽しくする、程々にする心がけを基に行為を見つめることだ。ガチガチに固まった心と身体を持っている中高年が、その意識を持つメリットは大いにある。


 しかし、根本では真逆的な意識も捨てられない。例えば、提言の一つ「安心・安全を求めない」。現代社会において、真っ先に強調される「安心・安全」が、人間を弱くしている事実は、誰もが思い当たるだろう。危険と隣り合わせの状態によって培われる力の存在は認めざるを得ない。そこに蓋をしてしまっている。


 山登りの趣味はないが、その嗜好がある人の内面には限界への挑戦、困難の克服が宿っていて、生きる実感につながる。レベルが下がっても自然に触れ合う大切さはやはり手離してはいけない。脳化や脱身体化が進む世の中では、生き方として自ら働きかけ、工夫するポイントは、人工物以外との接点にある気がする。

常套句は内なるコミュニケーション

2020年01月15日 | 雑記帳
 今年も大相撲が始まった。前場所終了後の桟敷席確保はことごとく外れてしまい、結局初場所もTV中継で我慢することになる。その観戦も孫の観るEテレと重なるのでじっくりも出来ない。まあ、ほどほどの範囲内で観ていこう。上位休場なしに開けた場所は、波乱の滑り出しとなった。面白くなる予感がする。


 金星などを上げたときにインタビューがある。だいたいいつもこんな感じだ。

------- おめでとうございます。今日の取り口では、最初に押し込まれた時、よくしのぎましたねえ。
「よく体が動いてくれました。気持で負けないように攻めました。」

-------- これで連勝ですが、明日以降どんな点を意識していきますか?
「いや、一日一番という気持ちで、頑張ります。」

--------- 今場所はこのあとも上位力士との取組みもありますが、いかがですか?
「思い切って、自分の相撲をとるだけです。」


 昔は息を弾ませるだけで喋れなかったり、ほとんど「はいっ」ぐらいしか話さなかったりする力士もいた。今はかなり饒舌な者もいる。しかし、多いのはやはり常套句を使うパターンだ。「よく体が動いてくれた」「一日一番」「自分の相撲」…これらに、大相撲の勝負の特性がよく表れていると言っていいかもしれない。


 「一日一番」…この当たり前の四字熟語は、勝ち負けにとらわれず目の前の相手に集中する心構えのことだ。以前からあったが貴景勝がよく使ったので流行った?感じがする。その場へ向かって「自分の相撲を取る」…これは得意な態勢、攻め口にもっていこうとする技術的な要素が入る。だから立ち合いが鍵となる。


 「よく体が動いてくれた」という表現は、直接的には反応の良さを示すが、体調や気力と関わり合う。そして場所前の稽古と結びつく点が多い。常に故障部分を抱える力士が多い中で、これらの常套句を口にできる自信は褒め称えられるべきかもしれない。個人競技は自らの中でコミュニケーションを展開させている。

快楽、意味、没頭のバランス

2020年01月13日 | 読書
 この研究者を知ったのは確かダイエット本だったと思う。切り口が新鮮だった印象があり『ほぼ日』でも取り上げられていたので、何冊か購読した。今改めて読むと、シンプルでありながら強調点が明確だなと改めて思う。本のテーマに限らず「原則」がぶれない感じ…ふと、酒井臣吾先生の語り口が思い出された。


 【友だちの数で寿命はきまる】石川善樹


 結論は副題にある。「人との『つながり』が最高の健康法」。以前も書いたが「つくりわらいでも寿命がのびる」というデータには驚かされたし、常識と捉えていることを揺さぶる一冊だ。何より汎用性が高い知見にあふれている。目標を持つ意義が揺らぎ始めている齢だが、次の一節は見過ごせないポイントだと思う。


 「どのレベルの目標であっても、その目標をクリアするためにどういう困難が発生するのかを徹底的に考え抜くことです」…ここに目標達成の肝がある。政策であっても個人レベルであっても、困難さを見極める作業なしに設定された目標は絵に描いた餅に近い。困難に対する細々とした対策こそ、考える芯なのだ。


 「幸せの根源は3パターンある」という点も納得し、自分に当てはめたくなる。曰く一つ目は「快楽パターン」、二つ目は「意味パターン」、そして「没頭パターン」。快楽は利己的な幸福感、それに対して意味は利他的だと言う。没頭は何かに打ち込むフロー状態。合わせ持つのが普通だが遺伝子により色濃く出るらしい。


 精神状態を左右する「状況」「認知と行動」「遺伝」の三要素で、最も影響するのは遺伝という。するとどのパターンに当てはまるかの把握は、心の健康つまり幸せを感じるための必須要件とも言えよう。むろん、社会生活を送っている以上、快楽だけでOKということはない。バランスを持つ意識に働きかけてみよう。

暖冬の年、2月に語る

2020年01月12日 | 教育ノート
 2007年の2月の全校集会だった。
 児童数は70人ぐらいだったかなあ。懐かしい。

 ボードで出す予定の言葉や数字に下線を引く準備もしている。
 この原稿はローカル&限定的話題だから、雑誌等には載せていないはずだ。
 
 (長文です)

・・・・・・・・

 「暖冬」…読めますか。ダントウ、暖かい冬ということです。
 今年は、記録的な暖冬と言われました。どのくらい珍しいか、というと60年に一度くらいと言われています。
 たぶん、みんなのお家の誰に聞いても、こんなに雪の降らない冬は初めて、という声が多いんじゃないでしょうか。

 「気象庁」という、お天気のことを調べている役所があって、そこの記録によると、今年の湯沢市(たぶん、湯沢の中心部、市役所の近くで測ったと思うのですが)の「最深積雪」(どのくらい雪が積もったか)は1月15日現在の39cmでした。では、去年はどうかというと、2月12日の118cmでした。高松地区だと、もう少し多いとは思います。
 雪の積もった量でいうと、3倍ぐらい違うということになります。

 暖かく雪が降らなかった冬なので、たいへん助かりました。
 例えば、みんなが歩いて登校するときも、先生方が車で通勤するときも、そんなに難儀な日はなかったです。それから、雪おろし、雪よせなどの作業も少なかったはずです。

 また、秋田県や湯沢市の除雪にかかるお金もずいぶんと少なく済んだといっていました。
 それから、風邪をひいた人はいたけれど、そんなに拡がらなかったですね。
 12月から2月までの間、本当によかったなあ、と思います。

 でもね、よく考えると、暖冬で、雪が少なくて困っている人もいるんですよね。

 どういう人が困ると思う。

 ○スキー場の人  ○服をうる人  ○冬物をうる人  ○農業の人

 関東地方やもっと南で野菜を作っている人は、鍋物に入れる野菜が売れないとか、野菜が育ちすぎて出荷できなくなったとか、いろいろと困ったことがあるそうですよ。

 それから、田んぼで米を作っている家は、今から春や夏に水不足にならないか心配していますよね。だって、山にたくさん積もって、それがとけて流れて、田んぼに水が引かれるのだから、その元になる雪が少ないと、本当に心配になりますよね。

 このように、いくら「暖かい冬」が過ごしやすく、便利でラクチンでも、よく見たり考えたりすると、困っている人や心配している人もたくさんいるのです。


 今は、お天気という自然のことをいいましたが、人間が行う「物事」でも似たようなことがあります。

 たとえば、何かみんなで仕事の準備をするとき、自分は好きなことをして楽でいいけれど、中には難儀している人がいたりする時があります。
 たとえば、全員で集会などをやろうとした時、多くの人が楽しく過ごせていても、中には何か苦手であったりして、困っている人がいる時もあります。(自分はよくても)

 解決するのが難しいときもあるけれど、自分だけ自分だけと思わないで、まわりに気を配ってくれれば、みんなにとっていいように物事が進むと思います。(みんないい気もち)
 皆さんなら、そんなふうに他の人の心も想像できる人がきっと多いはずだと先生は思っています。

 さあ、この学年もあと残り・・・・(以下略)

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 天気のことはあれこれ考えても仕方ないけれど、穏やかであればいいというのは正直な気持ち。
 その願いを少し織り込んで、懐かしがってみた。(写真は翌年のふつうの日)

その驚きを糧にする

2020年01月11日 | 雑記帳
 昨日は3時頃に退勤し、横手市の書店へ行った。運転していて市内に入ると周囲の田んぼに雪がないことに気づく。少しびっくりする。もちろん羽後や湯沢でもほとんどないのだが、小寒を過ぎ大寒へ向かうこの時期に積雪ゼロとは。「心配しなくても必ず降ってくる」は、この辺の常套句だがやや期待も湧いてくる。



 予定していた読書メモをブログアップできなかったのだが、朝に昨日の訪問者数(UU)を見たら362とあった。最近300超は珍しくないのでヘェーと思いつつ閲覧数(PV)を見たら4671とある。えっ、何!アクセスの3倍程度は珍しくないし1000超も時々あるが、この数は異状だな。何かの記事が元なのか。驚いてしまった。


 年末から正月を過ぎ、改めて自分自身を振り返ったら、いつもと違うと気づく。それは、手帳好きで必ずサイズの違うものを二つ三つ買っていたのだが、今年はまだ手にしていないことだ。これはどういうわけだ。学校を退職してからもなんとなく買い漁り書き込んでいたのに、計画性や目標意識の欠如か。はたまた…。


 今日読み始めた桜井章一の新書は、目標や計画に縛られる生き方に対するアンチテーゼだ。その意味ではいいきっかけになりそうだが、書き込んで行為化する、省察する習慣づけは悪くないと思うので、近々手帳は買い求めるだろう。非日常とまでは言えないにしろ、いつもと違う日々の驚きや気づきも書き留めたい。


 「こんなに降らない冬は、もう10年以上ないはずだ」と職場で話したら、2007年以来とニュースでも取り上げていた。そうか、あの頃…と記憶を巡らしたら、そう言えば「暖冬」について集会で話したことを思い出した。原稿を一応作って話していたから、データはあるはずと探してみたら、はいっ、ありました。明日へ。