すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「一日一生」を実現する習慣

2020年06月05日 | 読書
 先月連休に読んだ小池一夫の新書はなかなか面白かった。80歳を過ぎてもツイッターで発信できる心の向きには学ぶべきことが多い。図書館内に『自分のせいだと思わない。』(ポプラ社)というポケットブックスのような一冊があり、めくってみた。亡くなる直前まで、病床から発信し続けていたんだろうなと思う。


 「小池一夫の人間関係に執着しない233の言葉」という副題通り、悩みにこだわらず、上手にあきらめ、人生を楽にするコツのような一言が連なっている。しかし、「人間関係に執着しない」は人間関係否定ではなく、より良き人間関係のための提言だ。生きるために不可欠、手放してはいけない人間関係に頼ることだ。



 その意味では、対をなすとも言えるこの二つが心に沁みた。

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一日の始まりの、
起きて最初に交わした言葉は、
笑顔でおだやかな「おはよう」でしたか?
それは、とても幸せなことです。
もし、そうでなかったのなら
自分か相手に問題があるはず。
そして、それは早急に解決すべき問題です。

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長期入院中の82歳の、
今日の最後の言葉が
「ありがとうね」だったので、安心して眠れます。
最期の言葉が、
呪いの言葉だったら嫌だもんね。
いつ死ぬのか、別れるのかは、
老いも若きも関係ありません。
今日、最後の言葉を大切に。


 「一日一生」という心持ちを時々感じたりもするが、では具体的にどう大事にするかと考えたとき、まず言葉ありきと肝に銘ずること。朝一番と夜の締めくくりの習慣は、その日を生ききる術とも言えそうだ。

アラートな戯言を

2020年06月04日 | 雑記帳
 銀座老舗クラブのママが、営業再開にあたり「時間と空間を売っている、そういう文化があるのは銀座だけ」と語ったとネット記事で見た。洒落た言葉のように思えたが、対策を講じるその姿は和服に防護ガウンがあり、フェイスシールドで覆われている。いや、その意図はわかりますよ。しかしそれにしたってねえ…。


 当たり前だがそんな場所には行ったことがない。わずかに遠い昔、同僚に六本木某クラブへ連れていってもらった経験がある。(中級だと言っていた)そこでも驚くほどの美貌や雰囲気に田舎者は身体を堅くしていた。その時間と空間を支配していたのは人間以外あり得ないわけで、あんな身なりで可能なことなのか。


 とまあ、東京アラートに便乗(笑)してみました。それにしても届かない「アベノマスク」は、その「語」が布マスクを総称しているように使われていると小田島隆が指摘していた。批判に曝されつつ何百億円も費やされたモノを、実際に手に取ってみたい願望は結構長続きした。このくだらなさはいったい何の反動か。



 Eテレの番組で小児科医の熊谷晋一郎東大准教授が、興味深い視点を提示していた。コロナ災禍によって、「総障害者化」が見られたという点だ。確かに「不便さ」を基準にすると、行動制限がかけられ、今まで簡単に出来ていたことも時間がかかったり不可能になったりした。その状況をどう心に留めておくか肝心だ。


 自立とは何かと考えるとき、障害を持っている人の視点に立つと目を見開かされる場合がある。個が、全ての事を一人だけで解決し進むことなど不可能だ。そう考えると依存できる人が数多く周囲にいることが強みとなる。今「総障害者化」である現実を考えると、銀座のママの依存先もたかが知れている気がする。

その人なりの適応で生きる

2020年06月03日 | 読書
 「85歳で半数は要介護者であり、残り半数の多くは介護者になる」と聞いたことがあるが、エビデンスはあるのか。それにしてもまんざら嘘とは言えまい。


 同世代であれば一度ならずとも思ったことはあるのではないか。「オレも齢をとったらいつかボケるべが」…そんな想像を長く続けると「恐怖感」がわく。それは自分が自分でなくなるのではないか、という怖れだ。だからこの著の副題「記憶を失うと、その人は“その人”でなくなるのか?」には、思わず手が伸びた。


 『脳科学者の母が、認知症になる』(恩蔵絢子 河出書房新社)


 著者名には見覚えがあった。茂木健一郎が初めて英語出版した本の日本語版の訳者だった。その書『IKIGAI: 日本人だけの長く幸せな人生を送る秘訣」は一昨年読んだ中でも印象深い一冊だ。その関わりか茂木が帯文を書いている。「科学と『人』の間で揺れる。『人』であることを受けとめ、考え抜く。類い稀な本です。


 今のところ認知症は、医者であれ脳科学者であれ、治せないのが現実だ。家族がそうなった時どう対応するか、現在真っ只中にいる人も今後予想される多くの人も、何かしらのヒントを得られるのではないか。もちろん現実は容易くはないだろう。しかし「病気を見るか人を見るか」という視点の重みは伝わってくる。



 それは「生きる方向」とでも呼びたくなる、未来へ向けての姿勢だ。次の一言は私たちも無意識にしていることだが、改めて強く心に留めたいことだ。

 『人間は、どんな状態に置かれても、残っている脳部位を使って、自分を守り、生き抜く「適応」をする。「学び」というのは通常、より多くを覚えること、正しいことができるようになっていくことを指すのだと思うが、自分の与えられた状態を自分なりに受け入れ、生きる希望を見つけ出すことも学びと言って良いのではないだろうか。』


 忘れることも怒ることも誤魔化すことも、その人なりの適応である。「その人」を独立した個として認めるならば、「その人らしさ」とは最後まで失われるものではない。大切に思う気持ちを持ち続けられるかだ。

いい風を待ちたい月だよ

2020年06月02日 | 雑記帳
 六月は水無月と称されるのが有名だが、「風待月」という異称も素敵だなと思う。全国的に緊急事態宣言の段階的な制限が解かれ始め、報道が一斉にそんな雰囲気を醸し出すものだから、「いい風」が吹いてくれと余計に願いが強くなる。月替わりを区切りにできるほど甘くはないが、何かを頼りにしたくなる心境でもある。


 町広報今月号が届き、昨年6月に産まれた二人目の孫の写真が載っていた。また応募した地元紙一日付「誕生おめでとう」のコーナーにも、写真付きのメッセージが載った。初孫のときも同様でその喜びは変わらない。世間も同じように言葉をかけてくれる。ただ、今の窮屈さをすぐに解き放ってくれるわけではない。


 教育関係者の多くは、北九州市の動向を注視するだろう。感染が始まりだした頃から言われた無症状の感染者の存在をどのように受け止めるか、これが現場を悩ますことは間違いない。やるべきことをやるのみだが、指針を示されないと手に余る気がする。改めて「目に見えない敵」の怖ろしさが忍び寄ってくる。


 全国の花火師たちの気概を示した昨晩の企画は、素直にいいなあと感じた。自宅から見えたり聞こえたりしたわけではないが、それでもなんとなく連帯感を持てる。花火がよく映えるためには適度の風が必要で、それが煙を流してくれるからだ。顔を上向きにして花火を見上げるように、心も上向きでありたいと思う。


 花火のようなコロナのような(笑)見事に咲く花02020.6.1

空間に時間に意味を求める

2020年06月01日 | 雑記帳
 去年の5月末に「これほど天気が良かった5月は記憶がない」と思ったことを記憶している。確かに書き留めてもいた。まあそれは、4月から非常勤ながら仕事を得て新たな刺激を得つつ、休日も山菜採りなどで充実していたからだろう。今年の5月はどうだったか。五月晴れの日は多かったが、やはり心は曇天か。


 今年も変わらず家のハナミズキは咲きました2020.5.5


 図書館は全面休館から電話予約貸出のみという段階を経て、月半ば過ぎより開館となった。配慮は続いており利用者は少なめである。学校や子ども園等に向けた通信活動は一応こなした。町広報に書いた冒頭文は「読書場面の多くは『不要不急』なのかもしれません」だった。だからこそ、読書文化を停滞させたくない。


 木造校舎が懐かしい。町内撮影に出かけて久しぶりにパチリ2020.5.24

 山の恵みを求めて通ったコロナウィルスとは無縁の場所では、変わらず鳥がさえずり、草木が伸びる。俯瞰してみれば人間の脆弱さを痛感するが、自然の中ではそんな考えもまた弱々しい。空間も時間も支配しようと歩んできた人間の歴史の中で、一瞬の瑣末な存在でしかない己。この「六月」にも意味を求めている。


 孫ともよく散歩したひと月。スナップで草花を撮るにもよい時間。2020.5.25