すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

エモいのは何?誰?

2020年09月17日 | 読書
 昨日「シビレル(痺れる)」という表現を自分で使いながら「古い」と思った。めったに耳にしなくなった語だ。昔の邦画など観てると時々出てくるように思う。「強い感動」「心惹かれて高揚する」といったニュアンスであることは、ある世代より上なら承知しているだろう。では、今ならどういうのか…んっ、エモい


 この頃、時々お目にかかる語だ。なんとなく「エモーショナル」から来ているのだなと予想していたが、ネット上の解説でもそうあった。「○○い」という形の新語は次々に現れるが、それを使える年齢となると限られる。自分も使ったことはないし、今ひとつどんな場合に出てくるのか正体がつかめないように感じる。


 ネット上のサイトでもそんなことが指摘されていた。認知度はかなり高く生活に馴染んでいるが、「感動」「情緒」「賞賛」「悲しさ」と多岐にわたっている使用例が見られるようだ。しかし「なんとなくいい」という場合があり、現時点ではそれが主流と分析していた。そこで思い出したのが武田砂鉄のCakes連載だった。


 武田は、テレビ番組で取り上げられた「エモい」の使い方の例を見て、こんなふうに語る。

「エモい」に明確な意味は必要とされていない。意味より、なんかそういう感じがすることが重要。適用範囲を定めてしまえば、その言葉を用いる機会が減ってしまう。それよりも、「なんなら夜の信号機でもエモい!」などと、チャンスを見つけて、どんどん使っていく。



 以前のものですが本物です。エモいでしょ(笑)

 どこか心を揺り動かされることを拒んでいるような感覚が見え隠れする。それは「ヤバい」という語の中にも含まれていたと考えている。感動する自分を表しながらも、どこかそれを醒めた目で見つめて抑えを利かそうとする面があったはずだ。「エモい」はもしかしたら、その感情さえ置き去りにする便利語?なのか。 


 つまり、どんな場合どんな状況でも使える。「このお菓子、ずいぶんエモいねえ」「○○の新曲、あれはエモすぎるよ」「今度の新総理って、結構エモいよね」…と結局何も言っていない。他からの刺激に正対せずに、そのくせ自意識を残しながら、アピールは程々に…この現象は酷くエモいと取りあえず使ってみる。

格好いいの極意

2020年09月16日 | 読書
 このエッセイ集は発刊されて話題になった頃、読んでいる。もう三十年近く経った。さすがに中身は忘れていたが、題名の「あなた」が母親を指していることだけは覚えていた。初めて読んだ時、この大俳優もそうかと母親に寄せる思いに共感した。甘やかされて育った経験は良くも悪くも「思い」を強くするのだ。


 『あなたに褒められたくて』(高倉健 集英社文庫)


 著者が数年前に他界したときに、マスメディアは様々なエピソードを紹介した。そのほとんどは私たちのイメージする高倉健像を補強するものだった。この本に収められている数々の出来事も、少しいたずらっ子的な要素も含めて、やはり魅力的としか言いようのない人物像だ。ありきたりだが、「格好いい」と称される。


 その極意は、この一文に表れているかもしれない。「お心入れ」という章の結びである。「要するに思いが入っていないのに思いが入っているようにするから具合が悪いので、本当に思いが入っているのに、入っていない素振りするところが格好いいのかもわかんないですね。」人はそこに「純粋さ」を見つけるのだろう。



 さて、久々にシビレル表現(古い言い方と笑ふ)を目にした。第一章は「宛名のない絵葉書」と題され、作家檀一雄が一時暮らしたポルトガルの漁村を訪れたときのことが記されている。それはあるテレビ局のドキュメンタリーなのだが、健さんはディレクターが提示したタイトルを聞き、すぐに引き受けたのだった。


 そのタイトル名は、『昔男ありき』。その部分を読み、いやあまさにまさにと心が湧きたった。その撮影や構成の詳しい内容は知らずとも、無頼放浪の作家檀一雄の異国での生き様を、俳優高倉健がたどる…いい絵が撮れないわけがないと感じたのだ。シビレた訳は、今そういう「男」が皆目見当たらないからだろう。

わかろうとする者は声を聴け

2020年09月15日 | 読書
 昨日のブログに「今もわかろうとしているか」と題したのは、それが子どもに対する環境としての「大人」の条件である、というニュアンスを込めたつもりだったが…。これは結局、「学び続ける」というありがちな表現とそう変わらない。そう考えつつ、この題づけは現在の世の中でもう一つ大事な面があると気づく。



 コロナ禍により改めて深く考えざるを得ない、この複雑で不安定な社会状況。昔ははっきりイメージできた未来は、誰の頭の中でもぼんやりしてきた。言うまでもなく国際化、情報化が進み、いくら地方に居て狭い範囲で過ごしていても、「多様さ」を考えずに日々の仕事や暮らしを維持していくことは難しくなってきた。


 五味太郎が『大人問題』で呟いた一言の中に、こんな一節があった。

 わかり合うことでつながるより、わかっていないことの認識でのつながりのほうが熱いと感じます。わかろうとする、わかりたいと思う意志のようなものが相互関係を熱くします。


 「三無主義」と名づけられた世代である私は、田舎の小学校教師になってもどこか醒めた目で子どもを見ていた。新任の時はわずか十数人の子に向かって「みんながみんなと仲よくすることはできないのだ」と口走った記憶もある。もちろん「では、どういう時に…」と進めていったつもりだが、現実はどうだったのか。


 「わかり合えないことを、わかり合う」と言って満足しては、きっとまだまだだ。人が皆「わかりたい」と願えるかどうか…その根本から俯瞰しつつ、それでもわかろうとする意志を持つことが前提だ。世界の、日本のリーダー達はどんな声を発しているか。もちろん自らの日常の声も、この耳でしっかり聴きたい。

今もわかろうとしているか

2020年09月14日 | 読書
 内容はほとんど覚えていないが読んだ記憶はある。多分文庫化する前だから、担任を外されたころか。その当時の自分がどんな気持ちで読み通したか、全然想像できない。中身はまさに『教育問題』だし、学校教員を初め当事者たる大人の大半にとっては、読んでいて気分がよくなる類の本ではない。ため息も出る。


 『大人問題』(五味太郎 講談社文庫)


 つまりは「言いたいことはわかるけど、現実はね…」と言いたくなる。そしてその原因や理由を自分とは違うどこかに求めたくなる。しかし、一つ高みに立てば結局は自らもその一員であることは明白。なのに実際に行動できるかと言えば、ムリムリ…そういう気持ちに苛まれる。ただ、拾い上げるべき核心は正しい。



 最終章末尾の文章はこうだ。「大人の充足のために子どもがどの程度役立つか、あるいは使えるかを問うた時代はもう終わりにしていいと思います。」書かれて二十数年経ち、今の「時代」はそこを超えているような気配がする。少子化が進行していることは、私たちの大人のそんな考え方の末路と言ってもよくないか。


 この国は子どものことを考えていない、という言辞がどのくらい浸透しているかわからない。しかし教育予算の比較を見れば、やはりそれは明らかである。社会構造の問題であることも確かで、少なくとも教育現場を柔軟で創造的な空間にする政策は提案すらされない。だから「働き方改革」の感覚のずれも生ずる。


 個人的に「大人問題」とは「自分問題」と「環境問題」の二つに集約できると考えた。その二つは当然関わり合い双方向的に機能する。環境とは自分以外の全てを指すが、特に年少者を意識したい。自然、社会、そして様々なテキスト、メディア…すべて教育だ。その問題に向かう姿勢を端的に表したのが、次の言葉だ。

「(教育の成立に)いちばん必要なのは『わかっている人』ではなくて、現役でやっている人、つまり今でも『わかろうとしている人』です。」

秋めいて、曲が流れて

2020年09月13日 | 雑記帳
 ようやく秋らしい気温が戻ってきた感じがする。昨晩は夜空にドンドンと音が続いた。いつもの年なら「増田の花火」だなと想像する。秋が進むことを示す風物詩だった。かなり前になるが、田圃脇の道で毛布に包まって観たことが忘れられない。今年は中止になっているので、どこか近隣の町の祭典なのだろうか。



 昨日は勤めている図書館で大人向けの「読み聞かせワークショップ」を開催し、無事終了できた。講師が幸い隣県の方でありこの状況下でも人を集められ、いい研修となった。「絵本」を通したコミュニケーションのあり方を改めて考えた。メディアとしての絵本の価値をどう伝えるか。絵と肉声、アナログの力を信じたい。


 若い時は感じなかったけれど、暑さが治まると落ち着いて見たり聞いたりできるように思う。これも齢かな。読書もそうだが音楽なども同様だ。家ではもっぱらyoutubeのBGM的なものしか聴いていないが、たまに紛れて流れてくる若い者(笑)の響きに心惹かれる時がある。才能かどうかは知らぬが輝きは見える



 『香水』という曲が流行っていることを、お笑いコンビの物真似で知ったのは自分だけではないらしい。何が影響力を持つか分かりにくい世の中だ。youtubeで原曲のPVを見ていたら、その瑛人が、大好きなハナレグミの「おあいこ」という曲を女性シンガーとデュエットで歌っていて実に雰囲気があると感じ入った。


 音楽つながりで…今朝の新聞に地元のラッパーが、今週誕生するだろう新総理のお祝い的な曲を作ったと記事が載っていた。改めてそういう時代だと思う。ラップが社会的主張の強いジャンルという認識は過去のものか。そう言えば隣市の副市長だった官僚はそれを使ってウケていた。本質的なパワーには届かない。

たとえは観察力、抽出力で

2020年09月12日 | 読書
 『たとえる技術』(せきしろ  新潮文庫)

 「想像力のトレーニング」としての「たとえ」は、ナンセンスの面白さがある。
 道に片方だけの手袋が落ちていて、当然「落し物」だと予想されるが、それは100%とは言えない。残った10%の部分に想像の余地がある。それを利用していろいろと頭を巡らしている。著者は、このような例をどんどん挙げていく。

 決闘が行われた跡
 帰り道がわかるように置いてある
 場所取りで置いてある
 もしかしたらオブジェ
 ・・・・・




 先日、FB上に「峠道にある湧水の側のベンチに置かれた眼鏡」に心当たりのある人はいませんか、という告知が出た。95%以上「忘れ物」と思われるし、親切心の広がりで、もし持ち主がわかったら嬉しいことだ。しかし「たとえる技術」本の読者は、その写真をみてしまうとトレーニングとして使ってみたくなる。

 湧水を飲んだら、とたんに視力が回復したので置いてった
 水のきれいさを見てほしいための道具として置いてある
 宇宙人が置いた罠
 事件があって、眼鏡だけが残されている
 もしかしたらオブジェ
 ・・・・・・

 「感情をたとえる」章は、特に味わい深い。感情を表す「ように」「ような」を使ったたとえは常套句化しているので、多様に表現する技術の視点を学べる。「心臓が飛び出すと思ったほど」は驚きでよく使われる?が、その嘘っぽさより具体的事例を挙げたほうが、個性を強調できるということだ。著者の書いた例は…

 浴槽にお湯をはったつもりが水だった時のように驚く
 軽い気持ちでエサをあげたら予想以上の鯉が集まってきた時のように驚く
 オダギリジョーが本名と知った時のように驚く


 「あるある」的な共感が得られるかもしれない。そうでない人にも意外性は与えられるから、コミュニケーションのきっかけにはなるだろう。感情のたとえのための技として、いくつかポイントが示されている。「優しさをたとえるには『かわいそうなぞう』が良い」…つまり、名作を持ってくるのも確かに一つの手だ。


 「寂しい」「悲しい」「後悔」「つまらない」「ありがたい」「信じられない」…いずれも楽しく読める。「有名人を使う」方法の面白さに、なるほどと感心してしまった。「怒り」に対して織田信長、「悔しさ」にはザブングル加藤といった対象を拾いだす観察力、抽出力といった点が凄い。特に唸ったのが次の文例だった。

 高橋秀樹が「越後製菓」と自信満々に言った時のように正解

たとえを使って越境する

2020年09月11日 | 読書
 「たとえる」とは「ある事柄の内容・性質などを、他の事物に擬して言い表す」と広辞苑に載っている。明鏡国語辞典には目的も記されている。「ある事物を効果的に説明するために、類似した事物を引き合いに出して言う」。何のために「たとえる」か、と問われればそれに尽きるのだが…この本はちょいと越境してる。


 『たとえる技術』(せきしろ  新潮文庫)


 又吉直樹との二人で著した句集がなかなか面白かったので、手に取ってみた。冒頭ページに「この本は○○のような本である」と一行だけを記し、次ページに次のような惹句を置いた。「『たとえる』と一瞬にして目の前の世界が変わる」…つまり読了してそんなふうに感じられたら、この本の価値があるということだ。


 いつか見た夢のような…2年前の今日

 結果、50%ぐらいは納得できた。使い古された表現の代表とも言える「燃えるような赤いもみじ」は、確かに「赤さ」をアピールできるし、長年の伝統さえ感じさせる。しかしこれで満足できない、陳腐さを脱却したい者は、別の表現を探す。その想像を駆使しようとする姿勢が創造的であり、伝達以上の意味を持つ。

 そこで出された8つの文例から2つ引用しよう。

 広島カープのファンで埋め尽くされた球場のような赤いもみじ
 進研ゼミから返ってきた答案のような赤いもみじ



 前者のたとえでイメージされるのは、赤という色だけでなく、量も含められる。後者はどうだろう。何を言っているのかと思う人もいれば、経験知がある人であってもマルが多い答案、バツの目立つ答案のどちらかによって想像する風景は違うだろう。このように、たとえの使用は現場の人間関係に働きかけるのである。


 結論から言えば、たとえは「想像力のトレーニング」としてかなり有効である。特に拡散的思考を高めていく。「人のタイプをたとえる」の章は得心させられた。イソップ寓話の「金の斧」を取り上げ、返答する木こりの男の別タイプ化を試みる。神に問われて③と答える正直者が原話だが、無関心という場合も確かにある。

①金の斧を選ぶような人間
②銀の斧を選ぶような人間
③どっちも選ばないような人間
④どっちも選ぶような人間

 これは実に汎用性の高いパターンだと考えた。たとえるはこうした生かし方も可能だ。よって「たとえる技術」を学ぶことは、人やモノの見方を鍛えると結論づけてよい。蛇足のように付け加えれば「ナンセンス文学」のようにも読めた。
 つづく

二度寝に頼るお年頃

2020年09月10日 | 読書
 二度寝は気持ちがいい、と若い頃はそんなことをあまり感じなかった。しかし、朝の目覚めが早かったり、夜中にしばしば覚醒したりするお年頃になると、これがまた心地よい。というより頭のスッキリ度合が違うのだ。そういう個人的な感覚とどうつながるかは知らぬが、いずれ、二度寝とは「至福」と別記してよい。


『二度寝とは、遠くにありて想うもの』(津村記久子 講談社文庫)


 この作家の文章は、雑誌の連載でたまに読んでいるがさほど印象めいたものは残らなかった。今回、書名に惹かれてこのエッセイ集を読んでみたら、なかなかの手練れだなあと思った。中央紙某A新聞の連載も収められているとのこと。その身辺雑記の切り取り方に感心する。描写の視座はこの一節に集約されるとみた。

「以前は、人には表の顔と裏の顔がある、と理解するぐらいでよかったのが、今は表の顔、素顔、裏の顔、三つに分かれているようだ。」


 これは人物に限ったことでなく、様々な物事全般に言えることではないか。表面的なことの他に、「裏がある」ことは誰しもわかる。しかし、その中間もしくは底辺にある「素顔」と形容してもいい姿に気づくことが、表現者としての肝になるのではないか。その探り方、見つけ方が上手いことが作家としての資質だ。


 たとえば、「昔住んでいた家」を探しに出かけた章における、見つけたときの感覚のおさめ方など、なるほどなあと思わされる。実物を目にした時の懐かしさと違和感をこのように表す。「風景はかなり正確に覚えているのに、物の大小に関しては、とても主観に満ちている」…これは物の感じ方の核心とも言えないか。


 たとえば、「妙齢 初老 いい年」の章では、そうした形容に込められた人間の感情のあれこれを書くだけでなく、次のような考えを披露し「いい年」という言葉を見事に着地させている。「年をとると言うことは、その年相応であることと同時に、それまで経てきた年齢のすべてを内包するということなのではないか


 夢のようだ…2年前

 個人的には、年相応がいつも現実にさらされているので、「二度寝」でそれまで経てきた年齢を再生させる夢でも見て、いつでも引き出せるように出来たらいいと勝手なことを考える。

その青虫の生はどちらだったか

2020年09月09日 | 雑記帳
 いつものように湯沸かし用のやかんに水を入れようと蓋をとったら、なんとその縁に小さな青虫が…。えっ、どうして?台所の床に置いてあったやかんなので、傍に置いた親戚からの野菜にくっついていたのが場所移動したか。青虫とてこの暑さでは野菜に潜り込むだろうし、屋内に来て活動再開する気持ちもわかる。


 屋外へ出すのは忍びない気持ちもするが、このまま飼って羽ばたく姿まで見届けることはできないからね、辛抱してねと外へ放してやる。人間様はエアコンの効いた室内でなんとか過ごせるが、動植物たちは一体どう過ごすのか。むろん心配無用の事であり、そんなふうに自然淘汰は繰り返されてきたのかもしれない。



 大きく見れば人類もその循環のなかにいる。人間がいかにちっぽけな存在なのか分かる自分が、比較対象をどう設定しているかと言えば、途方もない世界を思い描いていることが不思議でならない。一匹の青虫にはおそらくそんな思考はないし言語化もない。そう考えると笑えるほど限りない無駄をまき散らしている。


 こんな詮無いことをぐたぐた考えているのは暑さのせいか。昨日は地域の高校の家庭科(保育)の授業に招かれた。昨年に引き続き、絵本の読み聞かせ実演とグループ指導等を行う。発表場面になると恥ずかしさを出す年代だが、絵本を選ぶときには自らの思いを重ねたはずだ。それを確かめるように少し助言した。


 名作『百万回生きたねこ』を取り上げた班もあった。幼い子相手では難しい話だが筋に触れることはいい。ストーリーに内包されるのは、繰り返された生と完結された生の対比でもある。それは、物語のように過去形でなく、実は誰にとっても現在進行形だ。今日は重陽の節句。菊酒飲まずとも長寿を願い災難を払え!

レジェンドたちの熱を想う

2020年09月08日 | 読書
 レジェンドと名づけていい人物が、この日本には何人ぐらい居るのだろう。個別の専門分野の数だけ存在する(した)かもしれない。第一人者とはまた違う響きだが、この人たちはどちらも兼ね備えている。


 『南極のペンギン』(高倉健  集英社文庫)

 唐仁原教久というイラストレーターの絵とともに10編のエッセイが収められている。絵本というジャンルでもない気がするが、小学校高学年や中学生に読み聞かせたくなる内容だ。特に冒頭の「アフリカの少年」、表題作の「南極のペンギン」は印象深い。黙読していても、健さんのあの声で語りかけられているようで心地よかった。もし、自分が読むとしたら影響を受けるのだろうか。いやいや、精神さえ伝えればよいのだ。


 『勘三郎伝説』(関容子  文春文庫)

 歌舞伎役者の有名どころは結構観たが、何故かこの同齢の天才役者を直接見ることが叶わなかった。つぐつく残念だ。親しい者だけが知るエピソードも含めて、とにかく魅力的な一生が綴られている。「生き急いだ」ようにも見られるが、著者の紹介した一節がすべてを物語っていると感じた。「南米には年の取り方について『老いる者と、若さを重ねる者がいる』という考え方があるそうだが、中村屋はまさに後者。




 『勝負師の極意』(武豊  双葉文庫)

 この競馬騎手は故人ではないが、上の二人と同じにもはやレジェンドと呼んでいいだろう。他に勝利を重ねつつある騎手がいたとしても異なる点は「華がある」ことだ。その真ん中に名馬たちとの出逢いがあり、ドラマを作ってきたことがファンを惹きつけてやまないのだと思う。勝負となれば、この騎手でさえ2割も勝てないのだが、負けたレースにこそ学ぶべきことはきあるはずだ。印象的なのは「不運を幸運に変えることは難しい。でも、不可能ではないのです」と言い切っていることだ。