和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

棒ほど願うて。

2007-12-01 | Weblog
12月に入りました。
「棒ほど願うて針ほど叶う」という諺があります。
「棒のように大きな望みを持って、実際には針のような小さな望みしかかなえられない。望みや願いは、その一部分もなかなか実現しないことをいう」(鈴木棠三「新編故事ことわざ辞典」創拓社)。「志大にして成る所小なるをいふ」(藤井乙男編「諺語大辞典」有朋堂)という意味。
今年も読みたい本がありましたけれど、読めなかった本。というのがありました。
本のレビューなら読んだ本が登場します。ブログならば、読まなかった本が並んでいても、よろしいですね。「棒ほど願(ねご)うて」みる一貫として、そんな読めなかった本を語ってみたいと思います。

昨年(2006年)読売新聞に連載されていたドナルド・キーン著「私と20世紀のクロニクル」が、今年単行本になっておりました。買おうか買うまいか迷ったのですが、自分は新聞の切り抜き(めずらしく、漏れもなく)がありましたので、買わずにすませました。今年読んだのはドナルド・キーン著「渡部崋山」(新潮社)です。読んでよかったと思いました。ゴッホの絵だけよりも、ゴッホの手紙があれば、より理解が深まります。もし手紙がなければどうだったか?というような疑問を持ち出してみます。もしドナルド・キーン氏の著作「渡部崋山」がなかったら、私は崋山の絵はわからないで終わったはずです。

まあ、それはそれとして、ドナルド・キーン氏の「私と20世紀のクロニクル」の新聞最終回で、ご自身がこう打ちあけておられます。「日本での生活に一つ不満があるとしたら、それは私の本を読んだことのある人も含めて多くの日本人が、私が日本語を読めるはずがないと思っていることである。・・東大のある教授などは、私が書いた『日本文学の歴史』を話題にして、『あなたが文学史で取り上げた作品は、翻訳で読んだのでしょうね』と言ったものだ。」

そういえば、ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文藝春秋)に忘れられない箇所があります。「嶋中さんのすすめで『中央公論』に書くようになった論文は、私はたいてい日本語で書いた。外国人が日本語で書くことに嶋中さんは興味を持たれたらしいが、あるときそのエッセイの一つが高等学校の教科書に採用され、『この論文は外国人が書いた日本語としては達者ですが、おかしな所がある。おかしな点を指摘しなさい』という文章が添えられているのには驚いた。」(p151~152)

こうして教科書で指摘されて読まされた生徒は、はたしてそのあとにドナルド・キーンを読むでしょうか。読むとしても、どういう心持で読むのでしょうね。そして何よりもこの問題をこしらえた人物が、何とも日本人的ないじましさ。それが教科書で高校生に感染するのです。その末端に私はいたのでしょう。奇異の目でキーンさんを見て、読んでいたような気がします。

それはさておき、ドナルド・キーン氏の他の著作を読もうと思いながら、そのままに忘れてしまっておりました。今年はまだあるのですが、来年こそは読むぞ(笑)。


というわけで、ブログで書くのは、本のレビューとは異なり、あれが読みたい、これが読みたい。と願いを書いていってもよいのだと、遅まきながら私は気づいたわけです。うん。これなら楽しみながら続けられそうです。
コメント
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