和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

疲れない。

2007-12-05 | Weblog
谷沢永一著「疲れない生き方」(PHP)を、ちょうど今日読みました。
この本、まるで谷沢氏の講演を聞いたような気分になります。わかりやすく。うんうんとうなずいているうちに終っていたというような読後感(谷沢氏の講演を聞いたこともないのですが)。

ひとつだけ、あげるなら。私はここを引用します。

谷沢氏は「渡部昇一の著作を読んでいると、恩師として佐藤順太先生の名前がしばしば出てきます。・・・」(p164~)と書いてから、渡部氏にとっての佐藤順太先生が、谷沢氏にもおられたことを、おもむろに書いているくだりです。その人の名は藤本進治。以下その人となりを引用してみます。

「藤本先生は生家が裕福で、『好きな本があったらいくらでも買いなさい』とお父さんが本代を払ってくれたから、若い時は嫌と言うほど本が買えたそうです。飲み代に困ると、購入した新刊をそのまま古本屋の天牛に売り、飲み屋に行ってお銚子をずらっと並べて飲んだと言っていました。」

「終戦まで一コマだけ、ドイツ語の非常勤講師として関大の教壇に立っていました。しかし、お父さんが亡くなると本が買えなくなり、それどころか、非常勤講師だけでは飯が食えませんから、家庭教師をして終戦まで生計を立てた。それが続かず、かつて今宮中学の担任だった石川という前校長が予備校を設立したので、そこへ呼ばれて、晩年は大阪の上本町六丁目にあった日本予備校の英語の先生をしていました。各学校の入学試験で英語の問題がどういうポイントで出るかということをきっちり当てたので、予備校界では名前の鳴り響いた人でした。」

「本来は哲学者ですが、実によく本を読んでいて、文学についても、美術についても詳しかった。その範囲があまりに広すぎて、『どこまでこの人は学んでいるのか』と見当がつかないぐらいでした。私が斎藤茂吉に凝って話をしに行くと、『それは』と言って斎藤茂吉の話になる。自然主義文学に凝って話に行くと、『田山花袋は』と言って、その話になる。当時、身辺に本はほとんどなくなっていましたが、コクヨの四百字詰め原稿用紙を二つに切った裏を使った、膨大な抜き書きがありました。だから、茂吉であろうが、花袋であろうが、川端康成であろうが、それをすぐに出してきてポイントを教えてくれるのです。そうすると、私は自然に藤本先生の真似をするようになります。つまり、読書の境界がなくなったのです。・・・今になって『ありがたかった』と思うのは、知識と勉強のことだけではありません。藤本先生が親子ほど年の離れた生意気な中学坊主の私を、一人前に扱ってくれたことも本当に感謝しています。関大予科に通っているなんて、学生としてはおよそ問題にならないレベルです。だから、世間はそういう目で私を見た。しかし、藤本先生だけは私を自分と同じ仲間のように、同じレベルで扱ってくれた。これはいわば無言の励ましとなりました。・・・とにかく息づかい、態度で、私を仲間のように扱ってくれている。この実感が若い生意気な中学坊主を励まし、言葉に尽くせぬ大きな刺激となったのです。」(p170)



コメント (2)
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