正岡子規著「病牀六尺」(岩波文庫)の解説は上田三四二でした。
上田三四二氏には「詩人」と題された文があります。
はじまりはこうでした。
「世の中にはすくなくとも一人、自分そっくりの人間が居るという。
そっくりというのではないが、尼崎安四の生涯を年譜に読んだとき、
前方を歩いて行く自分の背中を見るような気がした。
彼はひっそりと霧の中を来て、霧の中に消えていった。
ほとんど無名にちかかったこの詩人は、二つの未刊詩集『微笑と絶望』『微塵詩集』を遺して昭和27年満38歳10ヵ月で死んでいる。白血病であった。はじめての詩集、『定本尼崎安四詩集』が出たのはそれから30年近くたった昭和54年のことである。・・・」
この上田氏の尼崎紹介で、経歴が、興味深いのでいた。
その経歴を追ってみたいとおもいます。
大正2年7月26日生まれ。神戸一中を出て、
昭和6年に龍谷大学予科に入学している。仏教への関心のためで、親に黙って試験を受けた。仏教哲学を学ぶつもりであったが、大学の実情に失望して、中退。そして翌7年、第三高等学校の文科に入りなおす。そこで卒業までに5年かかっている。尼崎は2学年への進級に際して、数学の点数が足らずに落第している。「安四は数学の試験に白紙を出したという。友人が回してくれた解答をいったんは写したが、潔癖がそれを許さなかった。また消して、刑に服するような気持ちで名前だけ書いた答案をさし出した」。それでも24歳で京大文学部(英文科)に進みます。翌年結婚。そして「大学の卒業が近づいたとき、安四はあと一つになった試験を放棄した。在学中に結婚して子供までできた身に、普通なら一日も早い卒業を望みそうなものであるのに、彼は何故か卒業する気がないらしく、大事な試験を受けたがらなかった。妻と友人の富士正晴が曳きずるようにして試験場に連れ出すと、安四は『そんなにまでせんでも、受けるよ』と言い残して教室に入っていったが、そのまま、監視者の眼のとどかない別の戸口から逃れ出た。昭和15年のことで、彼は卒業しないまま翌16年の1月に兵役にとられた。加古川の高射砲隊に入り・・・・28歳から32歳にわたる足掛け5年の戦歴である。兵を解かれたとき伍長であった。」
終戦までの間の尼崎安四はどうだったかも、書かれております。
上田三四二氏はこう指摘しております。
「兵役は安四にとって留年と同じ意味をもっていた。世の常の職業に就きえないと知る詩人には、それは留保の恵みとさえ感じられたかもしれない」そして、同じ戦友の証言を引用しております。
「安四は優秀な砲手であったが、時に反軍的な言葉をもらすことがあって、中隊幹部からは要注意の兵とされていた。部隊がチモール島にいた頃彼は、日本は最終的には負けると放言して、班長や古兵の憤激を招いたことがあった。制裁をうけても信ずることは黙っていられなかったのであろう」「満州駐留の初めから安四の特異さは聞えていたと言っている」
そして復員。
その様子を上田氏はこう書いております。
「昭和21年6月和歌山県田辺港に上陸した尼崎安四は、もちろん大学に戻って卒業資格をとる気はなかった。7月で満33歳になろうとする詩人は、とりあえず妻の郷里である愛媛県西条市の下町というところに落着いた。世外の地である戦場から現世でもとりわけ生きにくい戦後という世の中に連れ戻され投げ入れられて、出来ることなら彼は、この世という生涯の試験場の裏口から抜け出したかったであろう。だがこんどは卒業試験のようなわけにはいかない。
土地の中学校に教師の口があった。この世における最初の職業であるその教師の仕事を、彼は一ヵ月足らずで辞めてしまい、妻にも辞めた理由を明さなかった。問い詰めると照れ笑いが返ってくるばかりである。それから、驚いたことに、彼は海人草などの仲買人になった。戦後の時代の仲買人といえば、闇ブローカーである。彼の仲買人生活は、いっそう驚くべきことに、昭和26年の半ばごろまでつづいた。」
そして、西条に連れ戻された安四は、昭和26年の9月から西条高校に勤めるのですが、翌昭和27年5月5日骨髄性白血病で亡くなります。
前に詩「柿」を引用しました。
ここに、尼崎安四の詩「トワヱモワ」と「白菜」と引用しておきます。
トワヱモワ
世界のどこかにつながつてゐたものが切れてしまつた
私はいつ地球の外へおちてゆくかも知れない
私の一歩一歩 私の一言ひとことはみんな偶然だ奇蹟だ
私が一番自分を信じてゐない
私は自分がどこにもつながつてゐないのを知ってゐる
然しあなたは私をあてに生きてゐる
私の袖につかまつて
あなた自身が陥ちてゆくもののやうに
このことを信じ あのことを信じ
たしかに露だつて葉末に生きてゐることがある
陰鬱な私のそばでなぜかあなたは輝いてゐる
白菜
和清湘老人極戯墨
霧がつめたく
白菜の白い根が光つてゐる
その光にはじかれた露の流れ
土を出て光る根の軸がまつすぐ空へのびる
光りつつ固く抱き合つて沈黙し
全身にこめた力の深い寂かさにゐる
のびる軸のまはりのあいまいなもの
風にゆれ 霧にふるへる 青いはつぱ
ふたしかな位置で ふたしかな形にひろがつてゐるものら
空は暗く 地は涯しなく暗く
一すぢの光る軸ばかりが趨つてゐる
霧の中を もやもやのはつぱの中を あいまいなものらの中を
貫きてらし 涯しない世界に結晶させる 白菜のひかり
上田三四二氏には「詩人」と題された文があります。
はじまりはこうでした。
「世の中にはすくなくとも一人、自分そっくりの人間が居るという。
そっくりというのではないが、尼崎安四の生涯を年譜に読んだとき、
前方を歩いて行く自分の背中を見るような気がした。
彼はひっそりと霧の中を来て、霧の中に消えていった。
ほとんど無名にちかかったこの詩人は、二つの未刊詩集『微笑と絶望』『微塵詩集』を遺して昭和27年満38歳10ヵ月で死んでいる。白血病であった。はじめての詩集、『定本尼崎安四詩集』が出たのはそれから30年近くたった昭和54年のことである。・・・」
この上田氏の尼崎紹介で、経歴が、興味深いのでいた。
その経歴を追ってみたいとおもいます。
大正2年7月26日生まれ。神戸一中を出て、
昭和6年に龍谷大学予科に入学している。仏教への関心のためで、親に黙って試験を受けた。仏教哲学を学ぶつもりであったが、大学の実情に失望して、中退。そして翌7年、第三高等学校の文科に入りなおす。そこで卒業までに5年かかっている。尼崎は2学年への進級に際して、数学の点数が足らずに落第している。「安四は数学の試験に白紙を出したという。友人が回してくれた解答をいったんは写したが、潔癖がそれを許さなかった。また消して、刑に服するような気持ちで名前だけ書いた答案をさし出した」。それでも24歳で京大文学部(英文科)に進みます。翌年結婚。そして「大学の卒業が近づいたとき、安四はあと一つになった試験を放棄した。在学中に結婚して子供までできた身に、普通なら一日も早い卒業を望みそうなものであるのに、彼は何故か卒業する気がないらしく、大事な試験を受けたがらなかった。妻と友人の富士正晴が曳きずるようにして試験場に連れ出すと、安四は『そんなにまでせんでも、受けるよ』と言い残して教室に入っていったが、そのまま、監視者の眼のとどかない別の戸口から逃れ出た。昭和15年のことで、彼は卒業しないまま翌16年の1月に兵役にとられた。加古川の高射砲隊に入り・・・・28歳から32歳にわたる足掛け5年の戦歴である。兵を解かれたとき伍長であった。」
終戦までの間の尼崎安四はどうだったかも、書かれております。
上田三四二氏はこう指摘しております。
「兵役は安四にとって留年と同じ意味をもっていた。世の常の職業に就きえないと知る詩人には、それは留保の恵みとさえ感じられたかもしれない」そして、同じ戦友の証言を引用しております。
「安四は優秀な砲手であったが、時に反軍的な言葉をもらすことがあって、中隊幹部からは要注意の兵とされていた。部隊がチモール島にいた頃彼は、日本は最終的には負けると放言して、班長や古兵の憤激を招いたことがあった。制裁をうけても信ずることは黙っていられなかったのであろう」「満州駐留の初めから安四の特異さは聞えていたと言っている」
そして復員。
その様子を上田氏はこう書いております。
「昭和21年6月和歌山県田辺港に上陸した尼崎安四は、もちろん大学に戻って卒業資格をとる気はなかった。7月で満33歳になろうとする詩人は、とりあえず妻の郷里である愛媛県西条市の下町というところに落着いた。世外の地である戦場から現世でもとりわけ生きにくい戦後という世の中に連れ戻され投げ入れられて、出来ることなら彼は、この世という生涯の試験場の裏口から抜け出したかったであろう。だがこんどは卒業試験のようなわけにはいかない。
土地の中学校に教師の口があった。この世における最初の職業であるその教師の仕事を、彼は一ヵ月足らずで辞めてしまい、妻にも辞めた理由を明さなかった。問い詰めると照れ笑いが返ってくるばかりである。それから、驚いたことに、彼は海人草などの仲買人になった。戦後の時代の仲買人といえば、闇ブローカーである。彼の仲買人生活は、いっそう驚くべきことに、昭和26年の半ばごろまでつづいた。」
そして、西条に連れ戻された安四は、昭和26年の9月から西条高校に勤めるのですが、翌昭和27年5月5日骨髄性白血病で亡くなります。
前に詩「柿」を引用しました。
ここに、尼崎安四の詩「トワヱモワ」と「白菜」と引用しておきます。
トワヱモワ
世界のどこかにつながつてゐたものが切れてしまつた
私はいつ地球の外へおちてゆくかも知れない
私の一歩一歩 私の一言ひとことはみんな偶然だ奇蹟だ
私が一番自分を信じてゐない
私は自分がどこにもつながつてゐないのを知ってゐる
然しあなたは私をあてに生きてゐる
私の袖につかまつて
あなた自身が陥ちてゆくもののやうに
このことを信じ あのことを信じ
たしかに露だつて葉末に生きてゐることがある
陰鬱な私のそばでなぜかあなたは輝いてゐる
白菜
和清湘老人極戯墨
霧がつめたく
白菜の白い根が光つてゐる
その光にはじかれた露の流れ
土を出て光る根の軸がまつすぐ空へのびる
光りつつ固く抱き合つて沈黙し
全身にこめた力の深い寂かさにゐる
のびる軸のまはりのあいまいなもの
風にゆれ 霧にふるへる 青いはつぱ
ふたしかな位置で ふたしかな形にひろがつてゐるものら
空は暗く 地は涯しなく暗く
一すぢの光る軸ばかりが趨つてゐる
霧の中を もやもやのはつぱの中を あいまいなものらの中を
貫きてらし 涯しない世界に結晶させる 白菜のひかり