和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

後悔と語り。

2007-12-15 | Weblog
朝日新聞2007年11月1日の文化欄にドナルド・キーン氏(1922年生まれ)の文が掲載されておりました。
題して「遠慮の名人 私の後悔」。
「後悔することは大体、何のためにもならないが、50年を超える日本での生活を振り返れば、やはり後悔がないとは言えない。」こうはじまっておりました。

掲載されている文には、富本憲吉・川端康成・吉田健一・谷崎潤一郎という名前が順にあげられてゆくのですが、日本のお年よりなら、80歳をとうにすぎた人の自慢話にでもなる題材なのです。それを、そんなことはちっとも感じさせずに語る。まるでそのために「後悔」を素材としてもってきたかのような(私など、この文をよんでから、何日かして今頃になって思い至るのでした)。見事な「後悔」の手綱捌きなのでした。

最初の後悔はというと

「留学生として京都に住んでいた頃、骨董品はまだ安かった。お金がなかった私は、自分は学者だから骨董品はいらないと思い、専ら古本を買っていた。掘り出し物もあったが、当時の粗末な紙のせいで、今では粉になって読めない本が多い。また、50年の間にはもっと優れた研究が発表され、古本を参考にすることもなくなった。代わりに美しい骨董品を買っていれば、今でも喜びがあったはずだ。古本を選んだことは間違っていたかもしれない。」

こうして、後悔からはじめることで、見事に自慢話から逃れて、読むものをフムフムと頷かせてゆきます。
つぎは富本憲吉氏が、自分の作品の陶器を下さると電話してきた時のこと。
「だが、日本人より日本人らしく振る舞う決意を固めていた私は、遠慮のそぶりを見せようと、『いえ、先生のお言葉だけで充分です』と断ってしまった。以来、ずっと後悔している。」
こうして、川端康成・吉田健一と続くのです。
そして、こう続けるのでした。
「私がこれらの失敗から学んだ点は尊敬する人が物をくださる好意を示す場合、躊躇しないで頭をさげて、『ありがとうございます』と言うことだ。断れば相手はがっかりし、自分も後々、後悔するだろう。」

こうして、書き写していると、なんだか、いつも躊躇ばかりの平凡な私にでも、言って下さっているような気になってきました。


それから、谷崎潤一郎氏の奥様の小舞を、お宅で拝見したことを、さりげなく、最後にもってきて、後悔しなかった例としてあげておりました。
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