あたたかな鍋料理の季節になりましたね。
白菜(はくさい)が漬物にしても、鍋料理にしてもおいしい時期です。
寺田寅彦の俳句に「塵の世に清きものあり白菜哉」というのがありました。
( 前回のコメント。fuzu-fuzuさんのご意見が、ありがたかった
というのは、私は尼崎安四の詩について、語りたいと思ってました
けれども、どうとりあげてよいのか、書きようが分からなかった
それが、fzu-fzuさんのご意見に、答えるように書けばいいのだ
そのように、思ったわけです。以下そのように書いてゆきます。 )
まず、アウトサイダーという言葉が浮かびました。
そしたら、続かないので(笑)、すかさず、話をかえます。
そう、寺田寅彦著「柿の種」(岩波文庫)は俳句雑誌の巻頭随筆をあつめてありました。
ですから、短章の文の終りには、掲載された年月が記載されております。はじまりは大正9年5月からでした。
そうして、読みすすむと関東大震災に遭遇し、それからのことも、書きこまれておりました。その時間的経緯をたどることもできそうなのです。
たとえば、昭和2(1927)年7月の短章に
「ラジオの放送のおかげで、始めて安来節や八木節などというものを聞く機会を得た。にぎやかな中に暗い絶望的な悲しみを含んだものである。自分は、なんとなく、霜夜の街頭のカンテラの灯を連想する。しかし、なんと言っても、これらの民謡は、日本の土の底から聞こえて来るわれわれの祖先の声である。・・・・
われわれは、結局やはり、ベートーヴェンやドビュッシーを放棄して、もう一度この祖先の声から出直さなければならないではないかという気がするのである。」(p92)
関東大震災が大正12(1923)年ですから、4年後の書き込みなのですが、
私には、続けて読んでいると、何となく震災をくぐり抜けてきた人の思いが感じられるのです。まあ、それは私の個人的な感想かもしれません。
ところで、大正12年11月の短章には、こうあります。
「震災の火事の焼け跡の煙がまだ消えやらぬころ、黒焦げになった樹の幹に鉛丹(えんたん)色のかびのようなものが生え始めて、それが驚くべき速度で繁殖した。樹という樹に生え広がって行った。そうして、その丹色(にいろ)が、焔にあぶられた電車の架空線の電柱の赤さびの色や、焼け跡一面に散らばった煉瓦や、焼けた瓦の赤い色と映え合っていた。道ばたに捨てられた握り飯にまでも、一面にこの赤かびが繁殖していた。そうして、これが、あらゆる生命を焼き尽くされたと思われる焦土の上に、早くも盛り返してくる新しい生命の胚芽の先駆者であった。
三、四日たつと、焼けた芝生はもう青くなり、しゅろ竹の蘇鉄(そてつ)が芽を吹き、銀杏(いちょう)も細い若葉を吹き出した。藤や桜は返り花をつけて、九月の末に春が帰って来た。焦土の中に萌えいずる緑はうれしかった。崩れ落ちた工場の廃墟に咲き出た、名も知らぬ雑草の花を見た時には思わず涙が出た。」
寺田寅彦著「柿の種」に出てくる「笑い」という言葉は、さまざまな登場の仕方をしており、興味ある視点を提供しております。けれども「涙が出た」とあるのは、めずらしいと私には思われました。
これは震災後の状況を書かれておりますが、
戦争中のことを書いた文を思い浮かべました。
Ⅴ.E.フランクル著「夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録」(みすず書房)にある、あの有名な箇所が浮かんできました。
そのエピソードは一人の若い女性のことでした。
「この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。・・・その最後の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。『あそこにある樹はひとりぼっちの私のただ一つのお友達ですの。』と彼女は言い、バラックの窓の外を指した。外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。病人の寝台の所に屈んで外をみるとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蠟燭のような花をつけた一本の緑の枝を見ることができた。『この樹とよくお話しますの。』と彼女は言った。私は一寸まごついて彼女に訊いた。『樹はあなたに何か返事をしましたか?――しましたって!――では何て樹は言ったのですか?』彼女は答えた。『あの樹はこう申しましたの。私はここにいる――私は――ここに――いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ・・・・。』」(p170~171)
ここから、尼崎安四の詩へとつなげたいのですが、
諌川正臣は尼崎安四の病状が急変した際に病院へ訪れて、手帳やノートのメモ的なものを、写しておかれたそうです。「定本 尼崎安四詩集」の拾遺詩集の最後に、その写した言葉が載っております。
ひよつと
さあ いよいよ これからだ
このメスが僕の腹に立つと
ひよつとしたら死ぬかも知れない
「ひよつと」といふ事実は非常に微妙なのに
僕の心は労働者の手のやうにぶざまだから
却々 ひよつとがのみこめない
それに死とは 変化であつてもう還元はしないといふことなのだ
生きてゐる僕は 空でも木でも草でもあるんだが
死んだ僕は多分草なら草一本きりになつてしまふんだ
尼崎安四の詩「白菜」は、そういえば、霧からはじまっておりました。
ここに、もう一度引用します。
白菜
和清湘老人極戯墨
霧がつめたく
白菜の白い根が光つてゐる
その光にはじかれた露の流れ
土を出て光る根の軸がまつすぐ空へのびる
光りつつ固く抱き合つて沈黙し
全身にこめた力の深い寂かさにゐる
のびる軸のまはりのあいまいなもの
風にゆれ 霧にふるへる 青いはつぱ
ふたしかな位置で ふたしかな形にひろがつてゐるものら
空は暗く 地は涯しなく暗く
一すぢの光る軸ばかりが趨つてゐる
霧の中を もやもやのはつぱの中を あいまいなものらの中を
貫きてらし 涯しない世界に結晶させる 白菜のひかり
高橋新吉が、この詩「白菜」について書いております。
それを引用してみます。
「この詩には『和 清湘老人極戯墨』と傍題があります。
白菜は野菜のはくさいです。清湘老人の絵を見て書いたようです。一幅の絵を見て書いたようです。美しい視覚的な詩です。一幅の絵が目に浮びます。一個の白菜に仮託して、清純な心境に淡彩が施されています。・・・・
彼は感覚を全身的に働かしています。聴覚も嗅覚も動員して、一個の白菜に打つかっています。簡略な俳句的な字句に、それが暗示されております。『光る根の軸』とか『のびる軸』とか『光る軸』とか、軸という字が三ヵ所にあります・・・白菜のはっぱは現象的なものとして、ふたしかなもの、あいまいなものとされています。現実の生活の苦しみも匂わせています。『力の深い寂かさにゐる』現象を透して不変なものを安四は見ております。このように宗教的な祈りに似た感情や哲学的な知性が、この作品からは汲みとれます。日本の詩もここまで来るためには大変な消費があったわけです。・・・・・」(「高橋新吉全集」青土社の第四巻。p510~511)
(これじゃ、fuzu-fuzuさんへの語りかけになっていないなあ、
困ったなあ(笑)。
こういう風にしか、とりあえず私には書けないのでした。 )
白菜(はくさい)が漬物にしても、鍋料理にしてもおいしい時期です。
寺田寅彦の俳句に「塵の世に清きものあり白菜哉」というのがありました。
( 前回のコメント。fuzu-fuzuさんのご意見が、ありがたかった
というのは、私は尼崎安四の詩について、語りたいと思ってました
けれども、どうとりあげてよいのか、書きようが分からなかった
それが、fzu-fzuさんのご意見に、答えるように書けばいいのだ
そのように、思ったわけです。以下そのように書いてゆきます。 )
まず、アウトサイダーという言葉が浮かびました。
そしたら、続かないので(笑)、すかさず、話をかえます。
そう、寺田寅彦著「柿の種」(岩波文庫)は俳句雑誌の巻頭随筆をあつめてありました。
ですから、短章の文の終りには、掲載された年月が記載されております。はじまりは大正9年5月からでした。
そうして、読みすすむと関東大震災に遭遇し、それからのことも、書きこまれておりました。その時間的経緯をたどることもできそうなのです。
たとえば、昭和2(1927)年7月の短章に
「ラジオの放送のおかげで、始めて安来節や八木節などというものを聞く機会を得た。にぎやかな中に暗い絶望的な悲しみを含んだものである。自分は、なんとなく、霜夜の街頭のカンテラの灯を連想する。しかし、なんと言っても、これらの民謡は、日本の土の底から聞こえて来るわれわれの祖先の声である。・・・・
われわれは、結局やはり、ベートーヴェンやドビュッシーを放棄して、もう一度この祖先の声から出直さなければならないではないかという気がするのである。」(p92)
関東大震災が大正12(1923)年ですから、4年後の書き込みなのですが、
私には、続けて読んでいると、何となく震災をくぐり抜けてきた人の思いが感じられるのです。まあ、それは私の個人的な感想かもしれません。
ところで、大正12年11月の短章には、こうあります。
「震災の火事の焼け跡の煙がまだ消えやらぬころ、黒焦げになった樹の幹に鉛丹(えんたん)色のかびのようなものが生え始めて、それが驚くべき速度で繁殖した。樹という樹に生え広がって行った。そうして、その丹色(にいろ)が、焔にあぶられた電車の架空線の電柱の赤さびの色や、焼け跡一面に散らばった煉瓦や、焼けた瓦の赤い色と映え合っていた。道ばたに捨てられた握り飯にまでも、一面にこの赤かびが繁殖していた。そうして、これが、あらゆる生命を焼き尽くされたと思われる焦土の上に、早くも盛り返してくる新しい生命の胚芽の先駆者であった。
三、四日たつと、焼けた芝生はもう青くなり、しゅろ竹の蘇鉄(そてつ)が芽を吹き、銀杏(いちょう)も細い若葉を吹き出した。藤や桜は返り花をつけて、九月の末に春が帰って来た。焦土の中に萌えいずる緑はうれしかった。崩れ落ちた工場の廃墟に咲き出た、名も知らぬ雑草の花を見た時には思わず涙が出た。」
寺田寅彦著「柿の種」に出てくる「笑い」という言葉は、さまざまな登場の仕方をしており、興味ある視点を提供しております。けれども「涙が出た」とあるのは、めずらしいと私には思われました。
これは震災後の状況を書かれておりますが、
戦争中のことを書いた文を思い浮かべました。
Ⅴ.E.フランクル著「夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録」(みすず書房)にある、あの有名な箇所が浮かんできました。
そのエピソードは一人の若い女性のことでした。
「この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。・・・その最後の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。『あそこにある樹はひとりぼっちの私のただ一つのお友達ですの。』と彼女は言い、バラックの窓の外を指した。外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。病人の寝台の所に屈んで外をみるとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蠟燭のような花をつけた一本の緑の枝を見ることができた。『この樹とよくお話しますの。』と彼女は言った。私は一寸まごついて彼女に訊いた。『樹はあなたに何か返事をしましたか?――しましたって!――では何て樹は言ったのですか?』彼女は答えた。『あの樹はこう申しましたの。私はここにいる――私は――ここに――いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ・・・・。』」(p170~171)
ここから、尼崎安四の詩へとつなげたいのですが、
諌川正臣は尼崎安四の病状が急変した際に病院へ訪れて、手帳やノートのメモ的なものを、写しておかれたそうです。「定本 尼崎安四詩集」の拾遺詩集の最後に、その写した言葉が載っております。
ひよつと
さあ いよいよ これからだ
このメスが僕の腹に立つと
ひよつとしたら死ぬかも知れない
「ひよつと」といふ事実は非常に微妙なのに
僕の心は労働者の手のやうにぶざまだから
却々 ひよつとがのみこめない
それに死とは 変化であつてもう還元はしないといふことなのだ
生きてゐる僕は 空でも木でも草でもあるんだが
死んだ僕は多分草なら草一本きりになつてしまふんだ
尼崎安四の詩「白菜」は、そういえば、霧からはじまっておりました。
ここに、もう一度引用します。
白菜
和清湘老人極戯墨
霧がつめたく
白菜の白い根が光つてゐる
その光にはじかれた露の流れ
土を出て光る根の軸がまつすぐ空へのびる
光りつつ固く抱き合つて沈黙し
全身にこめた力の深い寂かさにゐる
のびる軸のまはりのあいまいなもの
風にゆれ 霧にふるへる 青いはつぱ
ふたしかな位置で ふたしかな形にひろがつてゐるものら
空は暗く 地は涯しなく暗く
一すぢの光る軸ばかりが趨つてゐる
霧の中を もやもやのはつぱの中を あいまいなものらの中を
貫きてらし 涯しない世界に結晶させる 白菜のひかり
高橋新吉が、この詩「白菜」について書いております。
それを引用してみます。
「この詩には『和 清湘老人極戯墨』と傍題があります。
白菜は野菜のはくさいです。清湘老人の絵を見て書いたようです。一幅の絵を見て書いたようです。美しい視覚的な詩です。一幅の絵が目に浮びます。一個の白菜に仮託して、清純な心境に淡彩が施されています。・・・・
彼は感覚を全身的に働かしています。聴覚も嗅覚も動員して、一個の白菜に打つかっています。簡略な俳句的な字句に、それが暗示されております。『光る根の軸』とか『のびる軸』とか『光る軸』とか、軸という字が三ヵ所にあります・・・白菜のはっぱは現象的なものとして、ふたしかなもの、あいまいなものとされています。現実の生活の苦しみも匂わせています。『力の深い寂かさにゐる』現象を透して不変なものを安四は見ております。このように宗教的な祈りに似た感情や哲学的な知性が、この作品からは汲みとれます。日本の詩もここまで来るためには大変な消費があったわけです。・・・・・」(「高橋新吉全集」青土社の第四巻。p510~511)
(これじゃ、fuzu-fuzuさんへの語りかけになっていないなあ、
困ったなあ(笑)。
こういう風にしか、とりあえず私には書けないのでした。 )