多田道太郎氏が亡くなり、二つの追悼文を読みました。
ひとつは、鶴見俊輔氏(朝日新聞12月6日朝刊)。そこから最後を引用
「私は日本語を書くのに苦しんでいた。多田の論文が日本語特有の文尾の単調さを免れているのを、及びがたしと思っていた。三十年後、桑原武夫を校長とし、3年間36回の、市民学校講義があったとき、多田道太郎の講義は、NHK放送の際に何らカットされなかったのに納得した。名だたる教授たちの中で、話芸として多田道太郎の講義は随一の出来栄えだった。学者から離れた暮らしの中で、人々がおりなす風俗の美学と取り組む学問の分野がないことに注目した彼は、現代風俗研究会を起こした。京都の法然院貫主橋本峰雄とかたらって、そこで連続法話会をひらき、橋本の死後は、市内の徳正寺に法話の場をうつしてこの会は続いている。湯あみを、日本仏教感覚の基礎におく橋本の仏教学は、この会の初期に発表された。60年に近いつきあいの中で、私は多田道太郎からさまざまな刺激を受けた。ありがとう。」
今日の読売新聞(12月11日)には加藤秀俊氏の追悼文。ここでも最後の箇所を引用。
「多田さんの好きなことばに『神は細部に宿る』というのがある。ふだん見逃してしまいそうなちいさなもののなかから真理がみえてくるというのである。多田さんがその後半生に【現代風俗研究会】を発足させてもっぱら些事からの思想の探求を推進なさったのも、その信念を根底にしている。特筆すべきことはこの研究会が大学や専門の研究者の手を離れて、ごくふつうの市民によって維持・運営されてきたことである。わたしじしんも京都在住のころ、この会に参加していたが、『研究』といってもそれは日常経験の素材を会員が持ち寄ってまとめてゆく、という画期的手法でおこなわれていた。それによって『業績』をつくる、などという卑しい根性はまったくなかった。多田さんのことばによればこの団体には『思想も方向性もない』のが特徴なのだが、それを『軽評論』といってはまちがいである。多田さんの根幹にあったのはリベラルな急進主義、とでもいうべきもの。尊敬する先輩の訃報に接し、わたしはその思想の重さをあらためておもったのである。」
二人の追悼文を読めた。よかった。
ひとつは、鶴見俊輔氏(朝日新聞12月6日朝刊)。そこから最後を引用
「私は日本語を書くのに苦しんでいた。多田の論文が日本語特有の文尾の単調さを免れているのを、及びがたしと思っていた。三十年後、桑原武夫を校長とし、3年間36回の、市民学校講義があったとき、多田道太郎の講義は、NHK放送の際に何らカットされなかったのに納得した。名だたる教授たちの中で、話芸として多田道太郎の講義は随一の出来栄えだった。学者から離れた暮らしの中で、人々がおりなす風俗の美学と取り組む学問の分野がないことに注目した彼は、現代風俗研究会を起こした。京都の法然院貫主橋本峰雄とかたらって、そこで連続法話会をひらき、橋本の死後は、市内の徳正寺に法話の場をうつしてこの会は続いている。湯あみを、日本仏教感覚の基礎におく橋本の仏教学は、この会の初期に発表された。60年に近いつきあいの中で、私は多田道太郎からさまざまな刺激を受けた。ありがとう。」
今日の読売新聞(12月11日)には加藤秀俊氏の追悼文。ここでも最後の箇所を引用。
「多田さんの好きなことばに『神は細部に宿る』というのがある。ふだん見逃してしまいそうなちいさなもののなかから真理がみえてくるというのである。多田さんがその後半生に【現代風俗研究会】を発足させてもっぱら些事からの思想の探求を推進なさったのも、その信念を根底にしている。特筆すべきことはこの研究会が大学や専門の研究者の手を離れて、ごくふつうの市民によって維持・運営されてきたことである。わたしじしんも京都在住のころ、この会に参加していたが、『研究』といってもそれは日常経験の素材を会員が持ち寄ってまとめてゆく、という画期的手法でおこなわれていた。それによって『業績』をつくる、などという卑しい根性はまったくなかった。多田さんのことばによればこの団体には『思想も方向性もない』のが特徴なのだが、それを『軽評論』といってはまちがいである。多田さんの根幹にあったのはリベラルな急進主義、とでもいうべきもの。尊敬する先輩の訃報に接し、わたしはその思想の重さをあらためておもったのである。」
二人の追悼文を読めた。よかった。