読売新聞2007年12月29日編集手帳は今年亡くなった方の追悼文になっておりました。
最初はこうはじまります。
「7月に死去した心理学者の河合隼雄(享年79)は『ウソツキクラブ会長』と自称した。『大事なときに本当のことを言うために趣味でうそをつくのです』と。・・・」
そして藤波孝生(享年74)・坂井泉水(享年40)・城山三郎(享年79)・阿久悠(享年70)の言葉を短く引用しておりました。
季刊雑誌「考える人」2008年冬号が発売されております。
追悼特集「さよなら、こんにちは河合隼雄さん」。表紙はメガネをかけて笑いかけておられる河合さんの上半身がありました。
とりあえず、鶴見俊輔氏の追悼文はというと。京都へ赴任したころの思い出からはじまっておりました。
「・・・そうしたなか何人もの人たちに出会ったけれど、私が面白いと思ったのが、梅棹忠夫と河合隼雄なんです。」
そういえば、「丁丁発止」(かもがわ出版)と題する本があったなあ。
鼎談で、梅棹忠夫・鶴見俊輔・河合隼雄の三人が話している本。
さっそく読み返さなきゃ。と思いながら、今年も暮れてゆくのでありました。
もうひとつ。面白いということで、
季刊「本とコンピュータ」1999年冬号に
特集「知的生産の技術(電脳版)」に鶴見俊輔・多田道太郎対談「カードシステム事始 廃墟の共同研究」というのがあったのでした。
その最後には「それとね、私たちの共同研究には、コーヒー一杯で何時間でも雑談できるような自由な感覚がありました。・・・アイデアが飛び交っていって、その場でアイデアが伸びてくるんだよ。ああいう気分をつくれる人がおもしろいんだな。梅棹さんもね、『思想の科学』に書いてくれた原稿をもらうときに、京大前の進々堂というコーヒー屋で雑談するんです。原稿料なんてわずかなものです。私は『おもしろい、おもしろい』って聞いてるから、それだけが彼の報酬なんだよ。(笑)雑談の中でアイデアが飛び交い、互にやり取りすることで、そのアイデアが伸びていったんです。・・」(p207)
ここまで引用すると、「考える人」の鶴見さんの追悼文の最後のほうも引用したくなりました。
「河合さんと会うのは、何か仕事で、ということが多かった。でも彼はそういうとき、必ず仕事の前後に話ができるような時間をとる人なんです。時間がないときは、ちゃんとそう断る。・・・」(p99)これからが読み甲斐のある個所なのですが、話題がそれるのでここまでにしておきます。
最初はこうはじまります。
「7月に死去した心理学者の河合隼雄(享年79)は『ウソツキクラブ会長』と自称した。『大事なときに本当のことを言うために趣味でうそをつくのです』と。・・・」
そして藤波孝生(享年74)・坂井泉水(享年40)・城山三郎(享年79)・阿久悠(享年70)の言葉を短く引用しておりました。
季刊雑誌「考える人」2008年冬号が発売されております。
追悼特集「さよなら、こんにちは河合隼雄さん」。表紙はメガネをかけて笑いかけておられる河合さんの上半身がありました。
とりあえず、鶴見俊輔氏の追悼文はというと。京都へ赴任したころの思い出からはじまっておりました。
「・・・そうしたなか何人もの人たちに出会ったけれど、私が面白いと思ったのが、梅棹忠夫と河合隼雄なんです。」
そういえば、「丁丁発止」(かもがわ出版)と題する本があったなあ。
鼎談で、梅棹忠夫・鶴見俊輔・河合隼雄の三人が話している本。
さっそく読み返さなきゃ。と思いながら、今年も暮れてゆくのでありました。
もうひとつ。面白いということで、
季刊「本とコンピュータ」1999年冬号に
特集「知的生産の技術(電脳版)」に鶴見俊輔・多田道太郎対談「カードシステム事始 廃墟の共同研究」というのがあったのでした。
その最後には「それとね、私たちの共同研究には、コーヒー一杯で何時間でも雑談できるような自由な感覚がありました。・・・アイデアが飛び交っていって、その場でアイデアが伸びてくるんだよ。ああいう気分をつくれる人がおもしろいんだな。梅棹さんもね、『思想の科学』に書いてくれた原稿をもらうときに、京大前の進々堂というコーヒー屋で雑談するんです。原稿料なんてわずかなものです。私は『おもしろい、おもしろい』って聞いてるから、それだけが彼の報酬なんだよ。(笑)雑談の中でアイデアが飛び交い、互にやり取りすることで、そのアイデアが伸びていったんです。・・」(p207)
ここまで引用すると、「考える人」の鶴見さんの追悼文の最後のほうも引用したくなりました。
「河合さんと会うのは、何か仕事で、ということが多かった。でも彼はそういうとき、必ず仕事の前後に話ができるような時間をとる人なんです。時間がないときは、ちゃんとそう断る。・・・」(p99)これからが読み甲斐のある個所なのですが、話題がそれるのでここまでにしておきます。