和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

柿と白菜(その2)。

2007-12-25 | Weblog
高橋新吉が、この詩「白菜」について書いております。
それを引用してみます。

「この詩には『和 清湘老人極戯墨』と傍題があります。
白菜は野菜のはくさいです。清湘老人の絵を見て書いたようです。一幅の絵を見て書いたようです。美しい視覚的な詩です。一幅の絵が目に浮びます。一個の白菜に仮託して、清純な心境に淡彩が施されています。・・・・
彼は感覚を全身的に働かしています。聴覚も嗅覚も動員して、一個の白菜に打つかっています。簡略な俳句的な字句に、それが暗示されております。『光る根の軸』とか『のびる軸』とか『光る軸』とか、軸という字が三ヵ所にあります・・・白菜のはっぱは現象的なものとして、ふたしかなもの、あいまいなものとされています。現実の生活の苦しみも匂わせています。『力の深い寂かさにゐる』現象を透して不変なものを安四は見ております。このように宗教的な祈りに似た感情や哲学的な知性が、この作品からは汲みとれます。日本の詩もここまで来るためには大変な消費があったわけです。・・・・・」(「高橋新吉全集」青土社の第四巻。p510~511)

高橋新吉による詩「白菜」の解説には、
「美しい視覚的な詩です。一幅の絵が目に浮びます。」とありました。

ダダイストの詩人・高橋新吉には、あまり知られておりませんが、絵画への鑑賞眼を示す本を出しております。たとえば、「美術論集 すずめ」という現代美術に関する10巻の本がある。その内容はというと、毎年の美術展を観ながら、絵画の写真とその題名を並べてあり、それに触発された詩や、感想が紹介されているのでした。これについては、親しいKさんに聞いたエピソードがあります。「美術論集すずめ」の一冊をKさんは古本屋で買ったのだそうです。出版は竹葉屋書店とあり、電話番号も載っている。さっそく他の数冊もあるか確かめたくて連絡をとると、そこは高橋新吉の自宅でした。そこでKさんは興味がてら、住所をたどって本を買いに出かけていったそうです。詩人はテレビを見て待っており、部屋には地方紙が無造作に置かれていたそうです。Kは詩人にあって詩の話もせずに、残りの巻を購入する話をしていたそうで。押入れのようなところから出してきて売ってくれたそうです。ただし1冊欠があったと言っておりました。

ちょいと寄り道してしまいましたが、
詩「白菜」は、言葉としての意味合いをあれこれ語っても、つまらなくなるような気が私にはします。それよりも絵との関連から見てゆくと、すっきりと単純な視点を得る気がするのでした。思い浮かぶことを書いてみます。

「定本 尼崎安四詩集」の附録で、富士正晴氏が尼崎氏について書いておりました。そのなかにこんな箇所があります。「・・竹内勝太郎に師事し得たということがある。しかし、この師事の期間が竹内勝太郎の不運な急死によって、ごく短く打ち切られたことは彼の悲運であった。重ねてしかしというが、その後、竹内の心友の宗教的雰囲気の濃い花鳥画家榊原紫峰の宅に出入りして、彼に親しみ、彼の精神を吸収し得たということは尼崎にとって幸運とでもいうべきものであったと思われる。」

これは富士正晴が附録に書き記しているのですが、
のちに、富士正晴は「榊原紫峰」(朝日新聞・昭和60年)を書き上げております。
その本によると、竹内勝太郎の絵への視点が鮮やかに浮かび上がる記述があるのでした。榊原紫峰の絵を竹内がどう記述していたのかが、わかるのです。

「私の立場からすれば、氏(注:榊原)の新しい芸術的生活の本道は寧ろ『果実』から始まって『五月雨の頃』『露』『竹の秋』『獅子』『野菜』を経て『蛤』にまで続いていゐると見たいのである。『蛤』は尺三横物の小品で、唯大小五六個の蛤を描いたに過ぎぬが、ものの見方のはっきりとしたこと、実在の掴み方の確かなこと、生命の美しさを表現するその構図の組み方の立派なことなどは他の幾多の大きな作品よりも遙かに優れてゐる。私は此の小品を限りなく愛するものである。それはほんとうに紫峰氏が静物の本体を自覚してきたことを示すものであると信じてゐる。・・・・」(p120~121)

私には、この箇所を、そのまま尼崎安四の詩「白菜」の評価としたい誘惑にかられます。また、興味深いのは竹内勝太郎に「村上華岳の仏画」と題する文章があることです。
そのなかにこんな言葉があります。

「若し仏画が唯従来の所謂仏様を描き表すことに尽きるものならば、それはもう法隆寺の壁画や日野法界寺のそれの如き飛鳥、天平乃至藤原初期の作品で充分である。それは到底あれ以上には出られないし、及びもしない、ヨシそれ等に追従し得たにした所で、結局は模倣の譏(そし)りを免れまい。現代人は現代人の仏画を要求する。それは仏様の相を描かなくても、一木一石を描いて充分仏を表現し得、風景画を描いても静物を描いても、彼の信ずる宗教を切実に表現し得る底のものでなくてはならぬ。なぜなら我々は飛鳥、天平の時代に住むものでなく・・・現代人の宗教画に要求する所も亦自から違って来なければならぬではないか。」(p131)

たとえば、この言葉には、高橋新吉が詩「白菜」を評して「このように宗教的な祈りに似た感情や哲学的な知性が、この作品からは汲みとれます。」という言葉と近いものが感じられてくるのです。

竹内勝太郎や高橋新吉が、絵について語った感触に、尼崎安四の詩も近づいたのだと、拾遺詩集を読んで私は思うのでした。



正岡子規著「病牀六尺」(岩波文庫)の解説は上田三四二でした。
上田三四二氏には「詩人」と題された文があります。
はじまりはこうでした。

「世の中にはすくなくとも一人、自分そっくりの人間が居るという。
そっくりというのではないが、尼崎安四の生涯を年譜に読んだとき、
前方を歩いて行く自分の背中を見るような気がした。
彼はひっそりと霧の中を来て、霧の中に消えていった。
ほとんど無名にちかかったこの詩人は、二つの未刊詩集『微笑と絶望』『微塵詩集』を遺して昭和27年満38歳10ヵ月で死んでいる。白血病であった。はじめての詩集、『定本尼崎安四詩集』が出たのはそれから30年近くたった昭和54年のことである。・・・」

この上田氏の尼崎紹介で、経歴が、興味深いのでいた。
その経歴を追ってみたいとおもいます。

大正2年7月26日生まれ。神戸一中を出て、
昭和6年に龍谷大学予科に入学している。仏教への関心のためで、親に黙って試験を受けた。仏教哲学を学ぶつもりであったが、大学の実情に失望して、中退。そして翌7年、第三高等学校の文科に入りなおす。そこで卒業までに5年かかっている。尼崎は2学年への進級に際して、数学の点数が足らずに落第している。「安四は数学の試験に白紙を出したという。友人が回してくれた解答をいったんは写したが、潔癖がそれを許さなかった。また消して、刑に服するような気持ちで名前だけ書いた答案をさし出した」。それでも24歳で京大文学部(英文科)に進みます。翌年結婚。そして「大学の卒業が近づいたとき、安四はあと一つになった試験を放棄した。在学中に結婚して子供までできた身に、普通なら一日も早い卒業を望みそうなものであるのに、彼は何故か卒業する気がないらしく、大事な試験を受けたがらなかった。妻と友人の富士正晴が曳きずるようにして試験場に連れ出すと、安四は『そんなにまでせんでも、受けるよ』と言い残して教室に入っていったが、そのまま、監視者の眼のとどかない別の戸口から逃れ出た。昭和15年のことで、彼は卒業しないまま翌16年の1月に兵役にとられた。加古川の高射砲隊に入り・・・・28歳から32歳にわたる足掛け5年の戦歴である。兵を解かれたとき伍長であった。」

終戦までの間の尼崎安四はどうだったかも、書かれております。
上田三四二氏はこう指摘しております。
「兵役は安四にとって留年と同じ意味をもっていた。世の常の職業に就きえないと知る詩人には、それは留保の恵みとさえ感じられたかもしれない」そして、同じ戦友の証言を引用しております。「安四は優秀な砲手であったが、時に反軍的な言葉をもらすことがあって、中隊幹部からは要注意の兵とされていた。部隊がチモール島にいた頃彼は、日本は最終的には負けると放言して、班長や古兵の憤激を招いたことがあった。制裁をうけても信ずることは黙っていられなかったのであろう」「満州駐留の初めから安四の特異さは聞えていたと言っている」


そして復員。
その様子を上田氏はこう書いております。

「昭和21年6月和歌山県田辺港に上陸した尼崎安四は、もちろん大学に戻って卒業資格をとる気はなかった。7月で満33歳になろうとする詩人は、とりあえず妻の郷里である愛媛県西条市の下町というところに落着いた。世外の地である戦場から現世でもとりわけ生きにくい戦後という世の中に連れ戻され投げ入れられて、出来ることなら彼は、この世という生涯の試験場の裏口から抜け出したかったであろう。だがこんどは卒業試験のようなわけにはいかない。
土地の中学校に教師の口があった。この世における最初の職業であるその教師の仕事を、彼は一ヵ月足らずで辞めてしまい、妻にも辞めた理由を明さなかった。問い詰めると照れ笑いが返ってくるばかりである。それから、驚いたことに、彼は海人草などの仲買人になった。戦後の時代の仲買人といえば、闇ブローカーである。彼の仲買人生活は、いっそう驚くべきことに、昭和26年の半ばごろまでつづいた。」

そして、西条に連れ戻された安四は、昭和26年の9月から西条高校に勤めるのですが、翌昭和27年5月5日骨髄性白血病で亡くなります。


ここには、尼崎安四の詩「トワヱモワ」を引用しておきます。


    トワヱモワ

 世界のどこかにつながつてゐたものが切れてしまつた
 私はいつ地球の外へおちてゆくかも知れない
 私の一歩一歩 私の一言ひとことはみんな偶然だ奇蹟だ
 私が一番自分を信じてゐない
 私は自分がどこにもつながつてゐないのを知ってゐる

 然しあなたは私をあてに生きてゐる
 私の袖につかまつて
 あなた自身が陥ちてゆくもののやうに
 このことを信じ あのことを信じ
 たしかに露だつて葉末に生きてゐることがある
 陰鬱な私のそばでなぜかあなたは輝いてゐる


尼崎安四は昭和27(1952)年5月5日、満38歳10ヶ月で亡くなっています。
画家佐藤哲三は、その同じ1952年に、こんな言葉を発表しておりました。


「やうやく蒲原平野のみのりの秋も終り、暖かな火のほしい季節、私の絵画も温かく人々の心をあたためるものであってほしい。この様な可能性をもし私が考える時、致し方なくこの風土に作画するのでなく、この自分を育ててくれたなつかしい風物を、喜びや悲しみをふくめて現わしつづけた画家生活の一歩一歩で意味を持ちたいと思う。みにくい流行と混迷が、すべてをおおいかくそうとしても、蒲原平野は温かい幸福を知り、秋の豊かな収穫のために生きる希望にふるい立つであろう。私はただそのことのみを現わすために励まされてきた。」


佐藤哲三は、その二年後の昭和29(1954)年6月25日、享年44歳で亡くなっております。


身近な柿と白菜をとりあげて、画家佐藤哲三と詩人尼崎安四の二人を紹介しました。

佐藤哲三は明治43年生まれ(1910~1954)。
尼崎安四は大正2年生まれ(1913~1952)。
お二人は、ほぼ同時代といっていいかと思われます。
ここで、私はかってな想像を抱くのです。
もしも、尼崎安四が佐藤哲三の絵を見ることがあったらという想像です。
尼崎安四は戦争体験があります。その体験に「竹」と題した詩があります。
その詩の添え書きにこんな言葉がありました。
「カイマナ陣地死闘の日々
 何故か牧渓鶴の図が頭を離れなかつた。
     (注:渓の字は、左がサンズイではなく、奚の字です)
 敵機の不断の攻撃のため、椰子林は開墾地のやうに薙ぎ倒され、
 椰子の木は雪を被つたやうに真白だつた。・・・・・・・・・・」


ここからは、余談になりますが、洲之内徹を御存知でしょうか。
芸術新潮に「気まぐれ美術館」という連載をしていた画廊主です。
その洲之内氏に「北越に埋もれた鬼才・佐藤哲三」(1969年)という文があります。
その画廊主がはじめて佐藤哲三の絵を見たときのことを書いておりました。
「数年前、私の画廊へ、三枚の小さな油絵を、ひと抱えにして持ちこんできた人があった。『蕪(かぶ)』と、『桃』と、もう一枚はなんだったか思い出せないが、いずれそういった類いの果物か野菜を描いたものだったろう。作者は新潟のほうの出身で佐藤哲三といい、もう亡くなった画家だということであった。その三枚の絵を、そのとき私は買わなかった。いい絵だとは思ったが、佐藤哲三という名は私のはじめて聞く名前で、そういう、いわば無名にひとしい画家で、おまけにもう故人だということになると、それにしては、言われる値段が法外な気がしたからである。画商も十年もしていると、だんだん絵がわからなくなるのではないかと、つねづね私は思っている。高いか安いか、売れるか売れないか、儲かるか、それとも損をしそうか、商売だから仕方がないようなものの、そういう、本来絵そのものとはなんの関係もない思惑が先に立つからだ。そして、商売にならない作品には関心を持たなくなる。十年とはかからない。当時この稼業に入ってまだ五年か六年目で、すでに私はそうなっていたのだった。しかし、高いといったところでたかがしれている。せめてあのうちの一枚だけでも買っておけばよかったと、間もなく私は後悔するようになった。そのとき見逃した格別どうということもない『蕪』や『桃』の絵が、後になって、かえっていつまでも目についてならないのである。いったい、あのときのあの絵の何がこうなるのか、それを確かめようにも、肝心の作品が見られないのであった。・・・・・・」(洲之内徹著「しゃれのめす」世界文化社・p58)

そうそう、洲之内徹は大正2年生まれ(1913~1987)で、尼崎安四と同年に生まれておりました。

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柿と白菜(その1)

2007-12-25 | Weblog
まえにこのブログで書いたものをまとめてみました。
まとめた方が、ネット検索した時に読みやいだろうと思ったからです。
画家佐藤哲三と詩人尼崎安四とをとりあげております。

柿をもらいました。庭になった柿です。
たくさんもらったのを毎日食べていると、柿の話がしたくなってきます。
部屋には、ここ数年「富山和子がつくる日本の米カレンダー」が掛かっております。
そういえば、その11月は「柿と伊吹山」と題した小文と写真。白く雪をかぶりはじめた伊吹山を背景にして前に柿の木が写っております。葉が落ち枝の隅ずみまで柿がなっています。ここに、添えられた小文を引用してみます。

  柿は日本原産の果物
  日本を起源として世界中に広まった木
  保存食になり葉もヘタも薬用になり
  柿渋は塗料になり
  日本中に植えられた
  カキの語は「ディオスピロス カキ」という
  学名にもなっている
  日本の並木道の歴史は古いが
  始まりは柿や梨など果物のなる木の並木
  古代、街道に植えさせたもので
  飢えた旅人を救うためだった
  豪雪で知られ
  日本武尊や信長ゆかりの霊峰伊吹山の
  この雪姿を背に色づいた柿を見ると
  深まり行く日本の秋の
  原風景を思う

う~ん。いままで、気にしないでカレンダーを見ておりましたが、何げなくも小文と写真が呼応しているように思える瞬間。あらためて写真を眺めておりました。身近に住んでおられる人が目にしている、そんな何げない視線で伊吹山がとらえられており、それが伊吹山とも知らずに、つい何げなく見逃しちゃうところでした。
柿といえば、正岡子規の有名な俳句が思い浮かびます。
その明治28年の句を、すこしまとめて引用してみましょう。

 川崎や梨を喰ひ居る旅の人
 柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな
 渋柿やあら壁つづく奈良の町
 渋柿や古寺多き奈良の町
うん。古寺といえば、和辻哲郎著「古寺巡礼」がありますね。
大正8年に出版されております。たしか、明治維新以来捨てて顧みられなかった奈良付近の古寺を訪ねた印象記でしたですよね。
ということで、また正岡子規の句にもどります。

 町あれて柿の木多し一くるわ
 柿ばかり並べし須磨の小店哉
 村一つ渋柿勝(がち)に見ゆるかな
 嫁がものに凡(およ)そ五町の柿畠
   道後
 温泉(ゆ)の町を取り巻く柿の小山哉
  法隆寺の茶店に憩ひて
 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

ところで、柿ということで、私に思い浮かぶ絵があります。ここに書いてみます。
3年前(2004年)。東京ステーションギャラリーに佐藤哲三展を見に行ったことがあります。立ち去りがたくって、展示会場をうろうろしておりました。うろつくたびに印象に残る作品が違ってくる。最初はどの絵に興味をもったかというと、柿の絵でした。「コドモと柿の夢」という作品。縦46.0×横75.5の油絵。ちょうど右上角から左下角へと河がゆっくりと流れているように、柿が並べられています。いくつかは枝の葉もそのままに描かれ、青い柿も混じっており、色のコントラストは鮮やか。きちんと描かれたそれら柿の後方にまだ習作のような描きかけの丸い柿が輪郭もボヤケて描きこまれ。そういう柿の丸さと同じ大きさでもって子どもたちの顔が、背景のここかしこに描き込まれているのです。それがまるで、ぼやけた柿に目鼻をつけたような何ともワイワイガヤガヤとした絵です。机に両手をだして柿をほうばっているような姿。その脇でものほしそうに見ている子ども。お絵かきやら積み木やらしている様子の子もおります。うつ伏せで顔をこちらにむけて眠っている子ども。大人の腹の上に頬と手をのせている子ども。裸のあかちゃん。そう。子どもといってしまったのですが、ほとんどが赤ちゃんからすこし大きくなったかなといった丸顔をしております。そうした背景の前にもぎたての葉も新鮮な柿がきちんと描かれているのでした。
その楽しさは、たとえばマチスの絵などを思い描いてみてください。模様の壁紙を背景にして描かれた人物画。それが佐藤哲三の絵では、子ども模様を背景にして中心に柿を描いているのです。人物と背景とが見事に逆転したような描き方。いま思うとそういう面白さなのですが、ギャラリーを訪れた時には、ただ何となく微笑んでしまう面白さとして印象に残っていたのでした。

芥川喜好編・文「画家たちの四季」(読売新聞社・1994年)という画集があります。
そこには佐藤哲三の「田園の柿」が絵とともに紹介されておりました。
その絵は昭和18(1943)年作とあります。
「『田園の柿』は、そのころの作としてはめずらしく明るい、野性のにぶい輝きに満ちた絵だ。物資欠乏の折、柿だけは豊かだった。この大地への愛、大地が贈ってくれた素朴な果実への愛が、率直に伝わってくる。幼いころ脊椎をわずらい、病弱だった佐藤は、しかし明朗で健康な精神の人だった。晩年の代表作には悲痛な情感をたたえたものもあるが、この柿に見られるように、基本的に彼のめざしたのは『あたたかさ』だったといってよい。・・」


え~と、ちなみに「コドモと柿の夢」も、
「田園の柿」と同じ昭和18(1943)年に描かれておりました。


彌生書房より「定本尼崎安四詩集」が出ております。
その尼崎安四の詩に「柿」があります。


    柿

 暗い山がある 暗い野がある 暗い空がある
 暗い世界の中に人間のともした灯火でなく
 空と地がおのづからともした灯火がある

 往くところいづこにも熟れる枝々の柿
 陽と月の周期につれてめぐつてくる
 地球の上の翳りにも似て この季節
 地の涯からあげ潮のやうに覆うてくるとり入れの色

 崩れた古い寺の庭に 人住まぬ兵舎の跡に
 柿の実は人の知らぬ期待のために輝いてゐる
 永劫にめぐつてくる寂かさの中のいとなみの輝き
 言葉のないその歩みはただ見えぬものの歩みにつれてめぐるばかり

 森の野の風にとぼり消える灯火でなく
 人のとぼし 人の吹きけす幻でなく
 暗い山に 暗い野に 暗い空に
 木枯しの中にもおのづからともつてくるひそかなその灯


この詩には「人住まぬ兵舎の跡に」とありますから、
おそらく戦後の荒廃した風景に
立つ柿の木を詩にしているのかと思われます。



柿を食べおわる頃に、台所にあるのは白菜。あたたかな鍋料理にかかせませんね。
この時期、白菜(はくさい)はお新香にしても、鍋料理にしてもおいしいですね。
寺田寅彦の俳句に「塵の世に清きものあり白菜哉」というのがあります。


寺田寅彦といえば、「柿の種」という本があります。
そこには、寺田寅彦が書いた俳句雑誌の巻頭随筆が集められております。
それですから、短章の文の終りには、掲載された年月が記載されて文章がならんでいます。
はじまりは大正9年5月からでした。
そうして、読みすすむと関東大震災に遭遇し、それからのことも、書きこまれておりました。その時間的経緯をたどることもできそうなのです。

たとえば、昭和2(1927)年7月の短章に

「ラジオの放送のおかげで、始めて安来節や八木節などというものを聞く機会を得た。にぎやかな中に暗い絶望的な悲しみを含んだものである。自分は、なんとなく、霜夜の街頭のカンテラの灯を連想する。しかし、なんと言っても、これらの民謡は、日本の土の底から聞こえて来るわれわれの祖先の声である。・・・・
われわれは、結局やはり、ベートーヴェンやドビュッシーを放棄して、もう一度この祖先の声から出直さなければならないではないかという気がするのである。」(p92)

関東大震災が大正12(1923)年ですから、4年後の書き込みなのですが、
私には、続けて読んでいると、何となく震災をくぐり抜けてきた人の思いが感じられるのです。まあ、それは私の個人的な感想かもしれません。
ところで、大正12年11月の短章には、こうあります。

「震災の火事の焼け跡の煙がまだ消えやらぬころ、黒焦げになった樹の幹に鉛丹(えんたん)色のかびのようなものが生え始めて、それが驚くべき速度で繁殖した。樹という樹に生え広がって行った。そうして、その丹色(にいろ)が、焔にあぶられた電車の架空線の電柱の赤さびの色や、焼け跡一面に散らばった煉瓦や、焼けた瓦の赤い色と映え合っていた。道ばたに捨てられた握り飯にまでも、一面にこの赤かびが繁殖していた。そうして、これが、あらゆる生命を焼き尽くされたと思われる焦土の上に、早くも盛り返してくる新しい生命の胚芽の先駆者であった。
三、四日たつと、焼けた芝生はもう青くなり、しゅろ竹の蘇鉄(そてつ)が芽を吹き、銀杏(いちょう)も細い若葉を吹き出した。藤や桜は返り花をつけて、九月の末に春が帰って来た。焦土の中に萌えいずる緑はうれしかった。崩れ落ちた工場の廃墟に咲き出た、名も知らぬ雑草の花を見た時には思わず涙が出た。」


寺田寅彦著「柿の種」に出てくる「笑い」という言葉は、さまざまな登場の仕方をしており、興味ある視点を提供しております。けれども「涙が出た」とあるのは、めずらしいと私には思われました。

これは震災後の状況を書かれておりますが、
戦争中のことを書いた文を思い浮かべました。

V.E.フランクル著「夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録」(みすず書房)にある、
あの有名な箇所が浮かんできました。そのエピソードは一人の若い女性のことでした。

「この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。・・・その最後の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。『あそこにある樹はひとりぼっちの私のただ一つのお友達ですの。』と彼女は言い、バラックの窓の外を指した。外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。病人の寝台の所に屈んで外をみるとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蠟燭のような花をつけた一本の緑の枝を見ることができた。『この樹とよくお話しますの。』と彼女は言った。私は一寸まごついて彼女に訊いた。『樹はあなたに何か返事をしましたか?――しましたって!――では何て樹は言ったのですか?』彼女は答えた。『あの樹はこう申しましたの。私はここにいる――私は――ここに――いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ・・・・。』」(p170~171)

ここから、尼崎安四の詩へとつなげたいのですが、
諌川正臣は尼崎安四の病状が急変した際に病院へ訪れて、手帳やノートのメモ的なものを、写しておかれたそうです。「定本 尼崎安四詩集」の拾遺詩集の最後に、その写した言葉が載っております。

     ひよつと

 さあ いよいよ これからだ
 このメスが僕の腹に立つと

 ひよつとしたら死ぬかも知れない
 「ひよつと」といふ事実は非常に微妙なのに
 僕の心は労働者の手のやうにぶざまだから
 却々 ひよつとがのみこめない
 それに死とは 変化であつてもう還元はしないといふことなのだ
 生きてゐる僕は 空でも木でも草でもあるんだが
 死んだ僕は多分草なら草一本きりになつてしまふんだ


尼崎安四の詩「白菜」は、そういえば、霧からはじまっておりました。
ここに、引用してみます。

    白菜
          和清湘老人極戯墨

 霧がつめたく
 白菜の白い根が光つてゐる
 その光にはじかれた露の流れ

 土を出て光る根の軸がまつすぐ空へのびる
 光りつつ固く抱き合つて沈黙し
 全身にこめた力の深い寂かさにゐる

 のびる軸のまはりのあいまいなもの
 風にゆれ 霧にふるへる 青いはつぱ
 ふたしかな位置で ふたしかな形にひろがつてゐるものら

 空は暗く 地は涯しなく暗く
 一すぢの光る軸ばかりが趨つてゐる
 霧の中を もやもやのはつぱの中を あいまいなものらの中を
 貫きてらし 涯しない世界に結晶させる 白菜のひかり


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