毎日新聞2008年1月6日(日曜日)に第6回毎日書評賞の発表が載っておりました。受賞は「鶴見俊輔書評集成全3巻」(みすず書房)。
新聞には「選考を終えて」で丸谷才一氏の感想。
そして、鶴見さんへのインタビューをまとめた紹介記事が載っておりました。
その鶴見さんの紹介の途中と最後を引用しときましょう。
「『そもそも私の原体験は、5歳で読んだ宮尾しげをの漫画『団子串助漫遊記』でしたから』。宮尾はチェコ人作家ハシュクの『兵士シュベイクの冒険』に刺激を受け、25年に串助を出版した。シュベイクは第一次大戦でオーストラリア軍に属領から徴兵され、面従腹背の精神で上官を翻弄する。『欧州の少数民族が投げた直球が、5歳の私に届いたわけです。それがすべての発端』と、感慨深げ。鶴見少年は串助に夢中になり、『何百回読んだか分からない』。小学生の時、この本を再び楽しむ方法はないかと、庭に埋めてみた。内容を忘れたころに掘り出し、読み返すつもりだったという。しかし地下水に浸され、宝物だった串助は台無しに。『あの落胆は、今も忘れられません』」
「書評は、本がなければ成り立たない。『いわば、時代との合作』だ。60年にわたり書かれた書評3巻から、戦後の日本が浮かび上がってくる。『だからこの集成が、私の代表作。伯楽が評価して下さったことに、感謝します』。受賞の報を受けたとき、土に埋められた串助が、タイムカプセルのように脳裏によみがえったという。」
さて、面白かったのは丸谷才一氏の感想「選考を終えて」でありました。
これは、書評にとっての若さというのは何かというのを考えさせられました。
毎日書評賞というのは、どうやら若い書評家の登竜門とする意図のもとに創設されたものだと私は思っておりました。その第1回目を前にして、書評家向井敏氏亡くなっております。その時にてっきり、私などは向井敏氏が最初の受賞をするものと思っておりました(向井氏は毎日新聞の書評欄で、輝いておりましたから)。でも受賞はしなかった。何で向井敏氏を受賞させなかったのだろうと、ずっと思っておりました。おそらく大家だからだろうと思うことにしました。すると今回の丸谷氏の導入部が理解できます。
以下「選考を終えて」のはじまりの引用。
「本当のことを言えば若い受賞者にしたかった。鶴見俊輔では老大家に過ぎる。しかし若い著者たちの書評集は見劣りした。候補になるくらいだから一つ一つの書評は上手に書けている。うまい。名手揃いである。しかし一冊の本として見ると、途中で退屈する。心にこたえる要素がすくないのだった。・・・」
こうして、いままでの受賞の経緯からして、辻褄あわせをしながら、どうしても辛い評価をしなければならない、丸谷才一氏の悪戦苦闘する書きぶりが読みどころ。
そのなかに、こういう箇所がありました。
「わたしはこの三冊本にほとんど圧倒される感じだった。若い読者はときどき、ずいぶん常識的な意見だと思う箇所があるかもしれないが、しかしそれはたいてい鶴見さんがこの六十年間に言いつづけたせいで日本の社会に普及したものである。彼は新しい知識人の型を作り、新しい常識の型を創出した。」
私に思い浮かぶのは、桑原武夫著「文章作法」(潮出版1980年・p63~64)でした。そこでは梅棹忠夫氏『文明の生態史観』の一部を引用しながら、桑原さんが語っておりました。
「これを読んで、あたりまえのことが書いてあると思ったら、それは皆さんが若くて歴史感覚がないからです。40以上の人だったらわかるでしょうが、いまから20年前に、西洋人にむかって『すくいがたい無知と独善』というような言葉を書いた人があったか、考えてみてください。一人としていないですよ。ですから、あとになたらふつうに見えることが、書かれたそのときにはドキッとさす。これがいい文章、いい評論というものの特色です。私はその当時、この部分を読んだときにドキッとしました。なんと大胆なことを書くかと。」
桑原武夫といえば1950年に「書評のない国」という短文を書いております。
58年たった新春にあらためて引用してみたいと思ったのでした。その最後。
「かつて『思想』は書評欄に努力したが失敗し、唯一の雑誌『書評』も廃刊した。これを惜しむよりも、なぜ日本では書評が成立せぬかを分析してみる必要があるだろう。よい書評は高くつき、貧しい出版資本ではもたぬこと、学界、文学界の前近代性が公正な批評を忌避すること、インテリに悪しきオリジナリティ意識がつよくて書評に頼らないこと、大衆は流行で本を選び書評を不要とすること、まだまだあろうが、ともかくも書評が成立せぬかぎり日本の出版界は一人前ではない。」
楽しいじゃありませんか。
いま、出版界の書評が成熟期へと羽ばたこうとしてるわけで。
あらためて、鶴見俊輔氏の言葉を、かみしめてみるのでした。
「この集成が、私の代表作。伯楽が評価して下さったことに、感謝します」
新聞には「選考を終えて」で丸谷才一氏の感想。
そして、鶴見さんへのインタビューをまとめた紹介記事が載っておりました。
その鶴見さんの紹介の途中と最後を引用しときましょう。
「『そもそも私の原体験は、5歳で読んだ宮尾しげをの漫画『団子串助漫遊記』でしたから』。宮尾はチェコ人作家ハシュクの『兵士シュベイクの冒険』に刺激を受け、25年に串助を出版した。シュベイクは第一次大戦でオーストラリア軍に属領から徴兵され、面従腹背の精神で上官を翻弄する。『欧州の少数民族が投げた直球が、5歳の私に届いたわけです。それがすべての発端』と、感慨深げ。鶴見少年は串助に夢中になり、『何百回読んだか分からない』。小学生の時、この本を再び楽しむ方法はないかと、庭に埋めてみた。内容を忘れたころに掘り出し、読み返すつもりだったという。しかし地下水に浸され、宝物だった串助は台無しに。『あの落胆は、今も忘れられません』」
「書評は、本がなければ成り立たない。『いわば、時代との合作』だ。60年にわたり書かれた書評3巻から、戦後の日本が浮かび上がってくる。『だからこの集成が、私の代表作。伯楽が評価して下さったことに、感謝します』。受賞の報を受けたとき、土に埋められた串助が、タイムカプセルのように脳裏によみがえったという。」
さて、面白かったのは丸谷才一氏の感想「選考を終えて」でありました。
これは、書評にとっての若さというのは何かというのを考えさせられました。
毎日書評賞というのは、どうやら若い書評家の登竜門とする意図のもとに創設されたものだと私は思っておりました。その第1回目を前にして、書評家向井敏氏亡くなっております。その時にてっきり、私などは向井敏氏が最初の受賞をするものと思っておりました(向井氏は毎日新聞の書評欄で、輝いておりましたから)。でも受賞はしなかった。何で向井敏氏を受賞させなかったのだろうと、ずっと思っておりました。おそらく大家だからだろうと思うことにしました。すると今回の丸谷氏の導入部が理解できます。
以下「選考を終えて」のはじまりの引用。
「本当のことを言えば若い受賞者にしたかった。鶴見俊輔では老大家に過ぎる。しかし若い著者たちの書評集は見劣りした。候補になるくらいだから一つ一つの書評は上手に書けている。うまい。名手揃いである。しかし一冊の本として見ると、途中で退屈する。心にこたえる要素がすくないのだった。・・・」
こうして、いままでの受賞の経緯からして、辻褄あわせをしながら、どうしても辛い評価をしなければならない、丸谷才一氏の悪戦苦闘する書きぶりが読みどころ。
そのなかに、こういう箇所がありました。
「わたしはこの三冊本にほとんど圧倒される感じだった。若い読者はときどき、ずいぶん常識的な意見だと思う箇所があるかもしれないが、しかしそれはたいてい鶴見さんがこの六十年間に言いつづけたせいで日本の社会に普及したものである。彼は新しい知識人の型を作り、新しい常識の型を創出した。」
私に思い浮かぶのは、桑原武夫著「文章作法」(潮出版1980年・p63~64)でした。そこでは梅棹忠夫氏『文明の生態史観』の一部を引用しながら、桑原さんが語っておりました。
「これを読んで、あたりまえのことが書いてあると思ったら、それは皆さんが若くて歴史感覚がないからです。40以上の人だったらわかるでしょうが、いまから20年前に、西洋人にむかって『すくいがたい無知と独善』というような言葉を書いた人があったか、考えてみてください。一人としていないですよ。ですから、あとになたらふつうに見えることが、書かれたそのときにはドキッとさす。これがいい文章、いい評論というものの特色です。私はその当時、この部分を読んだときにドキッとしました。なんと大胆なことを書くかと。」
桑原武夫といえば1950年に「書評のない国」という短文を書いております。
58年たった新春にあらためて引用してみたいと思ったのでした。その最後。
「かつて『思想』は書評欄に努力したが失敗し、唯一の雑誌『書評』も廃刊した。これを惜しむよりも、なぜ日本では書評が成立せぬかを分析してみる必要があるだろう。よい書評は高くつき、貧しい出版資本ではもたぬこと、学界、文学界の前近代性が公正な批評を忌避すること、インテリに悪しきオリジナリティ意識がつよくて書評に頼らないこと、大衆は流行で本を選び書評を不要とすること、まだまだあろうが、ともかくも書評が成立せぬかぎり日本の出版界は一人前ではない。」
楽しいじゃありませんか。
いま、出版界の書評が成熟期へと羽ばたこうとしてるわけで。
あらためて、鶴見俊輔氏の言葉を、かみしめてみるのでした。
「この集成が、私の代表作。伯楽が評価して下さったことに、感謝します」