和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

日本人の『正統』

2008-01-18 | Weblog
文芸春秋2008年2月号の蓋棺録(がいかんろく)は、多田道太郎氏からでした。書き出しはこうです。
「フランス文学者の多田道太郎は、専門を超えて日本文化・風俗についての鋭い批評を展開し、多くの読者を驚かせた。旧制高校時代、ドイツに敗れたフランスは人気がなかった。多田は『ならばフランス文学をやってやろう』と仏文科に進学。ところが戦後は『サルトルだカミュだと仏文学が大流行』フランスについて口にするのも嫌になり、『パチンコとストリップの評論を始めた』という。1924(大正13)年、京都に生れる。・・・・」

そういえば、司馬遼太郎さんへの追悼文のなかで、私は多田道太郎さんの文が一番印象に残っております。これは三浦浩編「レクイエム司馬遼太郎」(講談社)に入っております。

え~と。以前興味深く読んだことがあった、多田道太郎著「しぐさと日本文化」をあらためて見てみました。
たとえば「見たて」と題する箇所にはこんな言葉がひろえます。
「いつか山口県の鍾乳洞を見て、おどろいたのは、奇怪な形の一つ一つに『見たて』がついていたことであった。たけのこといわれるとなるほどたけのこに見えてくる、といった具合である。アメリカの、これに似た鍾乳洞には、たしか鯨の口という一つのシンボルしかなかったと思う。あらゆるものを何かに『見たて』て、また見たてられてはじめて、おもしろいと思って納得する心性は、われわれ日本人にはなはだ色濃い。さまざまの事物を抽象によって整理するヨーロッパ的傾向にたいし、私たちは、物と物とをつなげる連続によって納得する好みがある。そこから連想能力の活発という特性もでてくるであろうが、それとは裏腹に、抽象と分析を『肩がこる』と称して遠ざける傾向もうまれてくる。『見たて』やたとえを好む具象的なものにたいする生き生きした興味を養う。リースマン教授は日本文化の中でもっとも注目すべきものとして、食堂の『実物模型』をあげたが、これも、具象への好み、具象による納得という心性とふかくかかわっている。ーーーというふうに考えてくれば、今日にいたるまで、影の部分、『裏』の文化としていやしめられつづけている具象的身振りが、あんがい、日本人の『正統』として、見なおされる日がくるかもしれないのである。」

ここからズレるかもしれませんが、杉山平一著「三好達治」(編集工房ノア)の最初の方に、『諷詠十二月』の、『九月』の項で、「わが国人の漢詩の妙、面白さを紹介、解説するところに・・」として引用している箇所が気になりました。
それは
「詩中に引用故事のふんだんなるは漢詩文の一大特徴にして、これあるが為に頗(すこぶ)る簡潔凱切(がいせつ)なる比喩象徴を連用し重畳(ちょうじょう)するを得、ために感受速度の敏活軽捷を極めたる快感をも計り得る訳合であって、その省略と快速との利便は殆ど他の文学に比類を見ない特殊の美的根元をなしてゐる。」
こうして引用したあとに、杉山平一氏はこう書いておりました。
「これは、漢詩のウィットによっていかに感受性をめざませ、省略と快速によって一挙に簡潔に世界をつかまえるかを、よく伝えており、比喩象徴こそ他の文学に比類を見ない特殊の美的根元、と喝破した・・・」(第一章「機知と比喩」p20)


「しぐさの日本文化」から、もう一箇所引用しておきます。
それは「しゃがむ」を取り上げた箇所です。

「会田雄次氏は『日本人の意識構造』という本の冒頭で、日本人のうずくまる姿勢の分析を試みている。アメリカ人は、危機に際して子供を守るのに『仁王立ち』になるのに対し、日本人は子供を抱き寄せ、抱きしめてうずくまる防衛姿勢をとる、という。この着眼は大へんおもしろい。『腰抜け一歩手前』というアメリカ人のうずくまる姿勢に対する評価には賛成しがたいが、それはともかく『姿勢』にたいする見方の多様性、国民による解釈の多様性におどろく。そして日本の女が危機にのぞんで咄嗟にうずくまるというのがおもしろい。人は危険にさらされたとき、その人のなじんだ基本的姿勢に立ち戻るものなのである。敵に『背中』を向けて『うずくまる』。その『背中』はやはり大事な『腹』をかばうということもあろうが、私流にいえば『しゃがむ』ところに、民族の根ぶかい習慣をみとめずにいられない。言うまでもなく、これは相手にさからわず、相手の力を受けながす姿勢なのである。」

ここで、私なら背中をすぐに思うのですが、背中じゃなくて、しゃがむという姿勢を見ている多田道太郎氏の着眼を思うのでした。

コメント
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