うちの子が中学生の時に、教えていただいた恩師が本をだされていた。
私は顔ばかりしかしらない方だったのですが、子が中学を卒業する頃に、ちょうど前後して定年をむかえておられ、退職のお葉書をいただいたことがあります。それから、韓国に単身留学(2年半ほど)して、帰ってきてからその体験を本にされたのでした。うちの子がお正月にクラス会で、本のことを聞いてきて、遅ればせながら読み始めたというわけです。
まるで、現代版浦島太郎物語といったところでしょうか。
たとえば、竜宮城のイメージとして、私はNHKスペシャルで放映された司馬遼太郎の「街道をゆく」の「韓のくに紀行」の場面を思い浮かべるのでした。あの映像を思い浮かべるといまでも心温まるような思いがふくらむような感じがします。そういえば、この本にも司馬さんのことが語られております。
「石窟庵(ソックラム)への道を傘をさして歩いていった。加茂はここにも三、四回きたことがあったが、雨に降られたのは初めてだった。今はガラス越しにしか見られないが、石仏の美しさは変わらない。司馬遼太郎はその美しさに感激して、立ち去ることを忘れる、と表現している。加茂も初めて見たときの感激は、今でもはっきりと覚えている。こんな美しい石仏がこの世にあったなどとは、とても信じられなかった。」(P86~87)
さて、先生は退職される6年前から毎年夏休みに「韓国の南部地域にある古墳、遺跡、博物館を見て回りました」(P11)とあります。そして韓国語も話せないのですが、韓国の大学に留学したいという思いを抱いたのでした。
ご自身のことについても、ときたま回想しながら、語られております。
「高校も大学も昼間は働き、夜、学校に通った。加茂(主人公のペンネーム)は高校二年のとき、東京に引っ越してきた。」(P200)
奥さんともども先生をしている家庭のようです。
娘さんのこともでてきます。
「生まれたときからの娘の映像が浮かんでは消えていった。ヘルニア(脱腸)の手術、小児喘息、椎間板ヘルニアの手術、そして、今は膠原病と、病気と縁の深い娘である。」(P73)
そして、卒業論文を書く場面。
「卒業論文の準備は、さらに加茂の肩に重くのしかかってきた。韓国語の論文はいちど日本語に訳して、利用できそうなところは別に抜き出した。参考文献は山ほどあって、時間がいくらあっても足りなかった。加茂は暇さえあれば机に向かってペンを走らせていた。こんなに勉強したことがこれまでにあっただろうか。加茂の記憶にはなかった。」(P342)
その論文はどうだったのか。
「あるとき李教授が加茂に言った。
『この論文には新しい発見がありません。形式も論文の形式ではありません。ここに引用された金教授は学会では評価されていません。』すべてその通りだ、と加茂は思った。客観的には論文とはいえないほど不出来なものだろう。しかし、加茂は今までの研究の成果をまとめただけでも満足していた。」(P427)
最後は、部屋を引き払い帰国する場面で終わるのですが、
手伝いに来てくれた玉姫さんとの会話が、まるで浦島太郎がおじいさんにもどる瞬間をとらえているようでした。
読後感としては、ああ、この本を書くことで、やっと留学が終わったのだと思える書きぶりだったのだと思い当たるのでした。この本自体が加茂さんの卒業論文なのだったのだと理解できます。そういえば、先生は中学では国語の先生でした。
峰龍一著「ハラボジ(じいさん)の留学」(新読書社・2100円+税)
私は顔ばかりしかしらない方だったのですが、子が中学を卒業する頃に、ちょうど前後して定年をむかえておられ、退職のお葉書をいただいたことがあります。それから、韓国に単身留学(2年半ほど)して、帰ってきてからその体験を本にされたのでした。うちの子がお正月にクラス会で、本のことを聞いてきて、遅ればせながら読み始めたというわけです。
まるで、現代版浦島太郎物語といったところでしょうか。
たとえば、竜宮城のイメージとして、私はNHKスペシャルで放映された司馬遼太郎の「街道をゆく」の「韓のくに紀行」の場面を思い浮かべるのでした。あの映像を思い浮かべるといまでも心温まるような思いがふくらむような感じがします。そういえば、この本にも司馬さんのことが語られております。
「石窟庵(ソックラム)への道を傘をさして歩いていった。加茂はここにも三、四回きたことがあったが、雨に降られたのは初めてだった。今はガラス越しにしか見られないが、石仏の美しさは変わらない。司馬遼太郎はその美しさに感激して、立ち去ることを忘れる、と表現している。加茂も初めて見たときの感激は、今でもはっきりと覚えている。こんな美しい石仏がこの世にあったなどとは、とても信じられなかった。」(P86~87)
さて、先生は退職される6年前から毎年夏休みに「韓国の南部地域にある古墳、遺跡、博物館を見て回りました」(P11)とあります。そして韓国語も話せないのですが、韓国の大学に留学したいという思いを抱いたのでした。
ご自身のことについても、ときたま回想しながら、語られております。
「高校も大学も昼間は働き、夜、学校に通った。加茂(主人公のペンネーム)は高校二年のとき、東京に引っ越してきた。」(P200)
奥さんともども先生をしている家庭のようです。
娘さんのこともでてきます。
「生まれたときからの娘の映像が浮かんでは消えていった。ヘルニア(脱腸)の手術、小児喘息、椎間板ヘルニアの手術、そして、今は膠原病と、病気と縁の深い娘である。」(P73)
そして、卒業論文を書く場面。
「卒業論文の準備は、さらに加茂の肩に重くのしかかってきた。韓国語の論文はいちど日本語に訳して、利用できそうなところは別に抜き出した。参考文献は山ほどあって、時間がいくらあっても足りなかった。加茂は暇さえあれば机に向かってペンを走らせていた。こんなに勉強したことがこれまでにあっただろうか。加茂の記憶にはなかった。」(P342)
その論文はどうだったのか。
「あるとき李教授が加茂に言った。
『この論文には新しい発見がありません。形式も論文の形式ではありません。ここに引用された金教授は学会では評価されていません。』すべてその通りだ、と加茂は思った。客観的には論文とはいえないほど不出来なものだろう。しかし、加茂は今までの研究の成果をまとめただけでも満足していた。」(P427)
最後は、部屋を引き払い帰国する場面で終わるのですが、
手伝いに来てくれた玉姫さんとの会話が、まるで浦島太郎がおじいさんにもどる瞬間をとらえているようでした。
読後感としては、ああ、この本を書くことで、やっと留学が終わったのだと思える書きぶりだったのだと思い当たるのでした。この本自体が加茂さんの卒業論文なのだったのだと理解できます。そういえば、先生は中学では国語の先生でした。
峰龍一著「ハラボジ(じいさん)の留学」(新読書社・2100円+税)