自分のところには、縁側もないし庭もない。
ということで、「庭」には縁がないのですが、
上田篤著「庭と日本人」(新潮新書・2008年1月20日発行)を、たのしく読みました。それをどういえばよいのかなあ。
司馬遼太郎・河合隼雄というお二人が、私のなかで、つながったような気がしました(お二人の名前は新書にでてきません)。まだまだ、いろいろな人とのつながりが用意されており、読みすすみながら、わくわくするのでした。
「ではなぜ庭か?
人間に生きるエネルギーをあたえる空間は建物ではなく庭、すなわち自然だからだ。庭の木であり、草であり、花であり、苔であり、虫であり、鳥であり、わたる風であり、さしこむ日である。それらは自然であり、一休のいう虚空だ。その虚空のひとつに月がある。満月になればじっさいに月のエネルギーが、つまり月の引力が海の潮をよせてくる。名月の夜は大潮なのだ。そこで芭蕉は深川芭蕉庵で、月の庭をみてくちずさんだ。『名月や門にさしくる潮頭』明治の作家の幸田露伴はこの句を解説して『空には満々たる月があり、門には潮がみなぎり・・・東京湾の潮は、秋夜には七尺ふくれる』といっている。」(p134 )
昨年の夏から庭について、興味があったので、この新刊の新書に、その渇きを癒してもらえたのでした。よい本に出会えました。よかった。
ということで、「庭」には縁がないのですが、
上田篤著「庭と日本人」(新潮新書・2008年1月20日発行)を、たのしく読みました。それをどういえばよいのかなあ。
司馬遼太郎・河合隼雄というお二人が、私のなかで、つながったような気がしました(お二人の名前は新書にでてきません)。まだまだ、いろいろな人とのつながりが用意されており、読みすすみながら、わくわくするのでした。
「ではなぜ庭か?
人間に生きるエネルギーをあたえる空間は建物ではなく庭、すなわち自然だからだ。庭の木であり、草であり、花であり、苔であり、虫であり、鳥であり、わたる風であり、さしこむ日である。それらは自然であり、一休のいう虚空だ。その虚空のひとつに月がある。満月になればじっさいに月のエネルギーが、つまり月の引力が海の潮をよせてくる。名月の夜は大潮なのだ。そこで芭蕉は深川芭蕉庵で、月の庭をみてくちずさんだ。『名月や門にさしくる潮頭』明治の作家の幸田露伴はこの句を解説して『空には満々たる月があり、門には潮がみなぎり・・・東京湾の潮は、秋夜には七尺ふくれる』といっている。」(p134 )
昨年の夏から庭について、興味があったので、この新刊の新書に、その渇きを癒してもらえたのでした。よい本に出会えました。よかった。