和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

書きたかったわけですよ。

2012-01-18 | 他生の縁
月刊雑誌「文學界」2月号。そこに
特集「若き日の開高健」が掲載されておりました。
これについては、
Tsubuteさんのブログ「読書で日暮らし」(1月15日)に
丁寧な紹介がされていて、ありがたいなあ。

さっそく、その「文學界」2月号を手にします。
私の興味は、
開高健から、向井敏と谷沢永一への手紙掲載箇所。
それにともなうところの、魅力は山野博史さんの
「伴走、二十年。 谷沢永一先生との約束を果すまで」
という文でした。

葉書の写真も掲載されております。
うん。私は、その1頁を見て満足。
なにか、これだけで満腹。
あとは、本棚へしまっておきます(笑)。
その葉書の写真掲載は、というと
開高が向井宛に出した昭和25年9月8日の
葉書の表裏が写されております。
そのペン字で細かく書かれた文の最後はというと、
「所で、えんぴつに入らんか。今のままでは全く苦しいんだ。金木から聞いて谷沢が君に会いたがってゐる。えんぴつ入社(!?)の件と谷沢とのインタヴューの件、返事をくれ。待ってゐる。」というのでした。

私が思い浮かぶのは、
谷沢永一著「運を引き寄せる十の心得」(ベスト新書)のこの箇所でした。

「司馬さんは、僕に解説を指名したり、山野(博史)さんを大事にして、『菜の花の沖』全六巻の特別製本、それを山野、谷沢の二人に全部署名して贈ってくれました。僕らとすれば、後事を託されたという気持ちでおります。新潮社から出ている『司馬遼太郎が考えたこと』という、親版全十二巻、あれの60パーセントは山野博史が自腹を切って発掘した成果です。ほんとうに草の根を分けるようにして。要するに、司馬さんは書きたかったわけですよ、まだ無名の頃から。山野さんはあらゆることを考えまして、司馬さんは産経の京都支局に配属されていました。そうすると、向かいにお花の未生流の建物があって、そこが山野さんの特色ですが、ひょっとしたら、それと関係があったかもしれないというので、そこへ飛び込んでいって、おたくのお花の師匠が雑誌を出していますが、その雑誌に司馬さんが書いていませんかと。無名時代に書いているわけです。それを発掘した。もっと傑作なのは、司馬さんのお宅は近鉄奈良線の八戸(やえ)ノ里という駅から歩いて数分のところにありますが、司馬さんは『街道をゆく』などで全国を回りますが、全部タクシーを利用しているわけです。八戸ノ里の駅前にタクシー会社があって、そこへ出かけていって、おたくの宣伝文かパンフレットに司馬遼太郎さんが書いていませんかと聞くと、書いているんですね。・・・・」(p188~189)


え~と、ついつい違う引用をしてしまいました。
その山野博史さんが「文学界」2月号に書いている。
というだけで、あとはもういいでしょう(笑)。

さてっと、
今回は読まずに本棚へならべることにいたします。

「文学界」2012年2月号。
「新潮」1991年12月号(「回想 開高健」が掲載)。
「回想 開高健」(新潮社)
「開高健 青春の闇」(文芸春秋版)
鼎談「書斎のポ・ト・フ」(潮出版)
対談「読書巷談 縦横無尽」(日本経済新聞社)
谷沢永一著「司馬遼太郎」(PHP)
向井敏著「司馬遼太郎の歳月」(文芸春秋)


月刊雑誌などは、いざ、探そうとすると見つからないものですが、こうしてまとめておけば間違いなし。ちょっと、山野博史さんの本が探せなかったのでした。また、あとで出てきたら。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする